第三節 宮殿建築構造の概要(P97-108)
工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第二章 工部省時代の建築及び関係事件
第一 奥向宮殿
奥向宮殿は純和式の木造建築なり。竣工当時においては何れも畳式にして大理石前飾付の暖炉ありき。
御造営当時の名称を竣工後改称せしものあり。次に掲ぐ
改称名/御造営当時の名称
奥御座所/常御殿
皇后宮御座所/皇后宮御殿
次に賢所には三殿あり、何れも南面して建てられ、その東方なるを神殿、中央なるを賢所、西方なるを皇霊殿と称す。総て荘厳神霊を極め、更に西方に神嘉殿あり、また賢所の西南部に仮賢所ありて、北部には馬場あり。而して共の西に濾地あり、これ宮殿給水の濾地にして御造営の当時設置せしものなり。
第二 表向宮殿
皇居御造営当局者において意匠惨憺たりしは、実に表向宮殿の設計に在りしなり。特に正殿及び豊明殿の大建築においては、斯かる建物として旧来に例の無き折衷式を以て建築せんとせしを以て、当局者の苦心は実に非常なりしなるべし。
正殿 これ即ち御造営当時において調見所と唱えたる宮殿なり。曩(さき)に赤坂に建造中なりし石造のものは全く別のものにして、木造銅屋根の大建築なり。その建坪223坪9合1勺3才、軒坪53坪9合1勺3才、造営費140,859円80銭にして、明治21年5月23日の竣工なり。
豊明殿 御造営当時は饗宴所と称せし宮殿にして、建坪265坪3合4勺6才、軒坪64坪9合、造営費162,490円25銭7厘、竣工は明治20年11月30日なりき。
以上二大建築御屋根は高く聳え、馬場先等より仰げば向って右なるは豊明殿にして、左なるは正殿なり。御屋根の銅色特に優雅にして森厳なり。
千種の間 御造営中後席の間と唱えしものにて、豊明殿の西南に隣りし、建味255坪8合4勺1才、軒坪30坪5合3勺9才、造営費157,254円47銭3厘、竣工は明治20年11月30日なり。
西溜の間 建坪217坪2合6勺8才、軒坪65坪2合6勺、造営費100,309円90銭2厘、竣工は明治20年11月3日なりき。
東溜の間 こは西溜の間と同大なり。
表御座所 御造営中は御学問所と称せし御間にして、宮中唯一の二階建木造なり。蓋し奥と表との間に介在する故高低の差あるより、自然二階建の必要起りしのみならず、当事者は巧に地勢を利用したりと謂うべし。
以上の外奥及び表の御室は甚だ多けれども、主なるもののみを記し他は省略することとす。
第三 宮内省庁舎
第11図 宮内省庁舎
煉瓦造二階建にして内外漆喰塗なり。建坪1,541坪9合9勺9才、軒高地盤より蛇腹上ばまで47尺7寸而して建築費は371,532円31銭7厘。
本建物は明治27年の震災後、念のため内側に木材を縦横に施して補強を為し、以て後の大震に備えたり。斯くて明治年間能く使用に堪えたり。本建物は全部松の杭打地形にして、前面は比較的柔軟なれども、後方崖に接せる部分は地質頗る堅く杭の入込み頗る困難なりき。
第四 橋梁
(一)正門前の石橋(旧大手橋のありし所)
第12図 旧二重橋を明らかに現わしたる図
宮城門前の橋は俗に二重橋と称せらるるものなれども、その実二重橋は奥にある高き橋を言いしなり。木造二重なりしその橋は鉄橋に架し変えられたること次項の如し。
この石橋は渡116尺4寸、幅42尺2寸、工費59,216円56銭5厘にして、久米民之助の設計に基づく。而して欄干等の設計は河合浩蔵の考案なり。但、橋以外の堀岸、欄干は後の時代に属して、片山東熊等の指揮に為るものなり。
旧時は緩穏なる古代の反弓形木橋なりしなり。その欄干は各所に飾るに青銅製擬宝珠を以てせり。その長140尺5寸、幅25尺、これ旧西之丸大手橋なりき。明治19年4月29日之を撤去して石橋架設に着手し同20年12月16日竣工したり。
第13図 旧大手橋及び二重橋
第14図 宮城正門前石橋
(二)正門内の鉄橋(旧二重橋のありし所)
前記石橋と平行して高き位置に架したる鉄橋は、明治19年10月30日起工、同21年10月14日竣工せしものにして渡り80尺幅35尺、工費金47,691円94銭9厘なり。その鉄橋材料は独逸国ハーコート会社支店なる東京伊理斯商会に購買方を命じたり。
大正年間東宮御慶事の際に岡山高蔭が
大内の御堀に高き二重橋天よりつちに掛かるなりけり
と詠せしはこの高き橋なり。
これ即ち旧二重橋のありし処にして、旧橋は反弓形の木橋にて長96尺幅22尺、欄干には青銅の擬宝珠を装飾せり。その橋下には柱脚を支承する為めの台ありて、恰も全体が二重の橋梁なるが如く見えたり。これ二重橋なる名称の起原なり。
(三)吹上と山里間の釣橋
御造営着手前に既に架しありたる釣橋は何人の設計に成りしか不明なれども、恐くは外国の土木技師なりしならん。深き渓谷の上に高く長姿を現わし、幽邃(ゆうすい)の裡に忽然として奇観を呈し、えも言われぬ風情なりしなり。
明治14年10月18日御造営宮殿の位置撰定の商議ありたる際、この道灌濠に架設しある釣橋を石橋に改築せんか、将濠のその部分を埋填して道路と為さんか、議論二派に分れ論駁(ろんばく)頻(しき)りなりしなり。蓋し釣橋は動揺して渡行者に危険を感ぜしめし故に、その撤廃は已むを得ざりしなり。後明治17年1月11日宮内卿より通達ありて填立に治定されたり。
この填立には地方の篤志者蝟集(いしゅう)し、許可を得て努力に従事したり。而して男女の労力者は紋付羽織にて土の運搬をなすと言う奇観を呈したりき。
第五 雑件
(一)宮城の名称
宮殿建築既に竣工を告げたれば、明治21年10月27日皇城を宮城と称することとなれり。
宮内省告示第6号
皇居御造営落成に付自今宮城と称せらる
明治21年10月27日 宮内大臣
(二)宮殿の名称
明治21年10月17日宮殿名についてその向より当局へ伺出たる意見書次の如し。
(中略)
斯くて宮殿主要部分の名称は原案差出済なりしが、尚お他の部分の名称について明治21年12月10日次の如く伺出でたり。
(中略)
是において12月27日確定名称を正式に宮内省よりその向々へ布達相成りたり。即ち次の通り。
宮城謁見所以下殿名左記の通御定め相成候条此段相達候也
殿名/御造営中唱えしもの
正殿/謁見所
鳳凰間/内謁見所
豊明殿/饗燕の間
御座所/御学問所
奥御座所/常御殿
皇后宮御座所/皇后宮御殿
藤の間/皇太后宮御休所
胡蝶の間/同御次
明治21年12月27日 本省
省中職寮局課掛所院校
その他翌22年1月19日附にて、左記の通り追加相成りたり。
竹の間/小食所
牡丹の間/婦人の間
(三)万民の誠忠
御造営につき金員献納者は163,698人にして、金額は金332,760円
物品献納者は68人
労力献納者は9,729人
次に御造営に関する和歌を掲げん
(後略)