第七節 建言その他の公文書(P63-72)
工学会(1927)『明治工業史 建築篇』
第一編 建築沿革一般
第一章 維新前後の建築及び関係事件
第一 皇城炎上後の建言
(一)土木頭小野修一郎の建言
明治6年5月5日 皇上炎上後、御再営に関して建言せしもの少からず。その中一二を次に掲げ臣民の御造建に関する熱誠の一端を示さんとす。即ち小野土木頭の建言左の如し
(中略)
これ明治6年の建言なり。即ち本丸若くは西丸等御指定の場所に、取敢えず仮皇居を建築し参らせんとの事なり。次に細川潤次郎の建言を掲ぐ
(二)正院四等出仕細川潤次郎建言
(中略)
第二 一廉金500円以内に関する起案
明治中葉以後において官庁建築及び物品売買の際、一廉金500円内外の差により取扱を異にしたり。而してその500円なる数字の起原については、明治7年に遡り左記の文書に胚胎するが如し。
(中略)
此伺に対して左の指令ありたり。
(中略)
第三 横浜公園造営に関する文書
本邦に於いて新に設置されたる公園中、横浜公園は最初のものなるべし。今その設置前における往復公文書を掲げ、以てその当時の経緯を知るに便せん。
(中略)
之に対する指令は左の如し。
(中略)
別紙は次の通り
(中略)
以上の経緯によりて公園造営に着手することに至りたり。然れども落成迄の事について文書なきは遺憾なり。
第四 陸軍省陣営建築に関する文書
左記の文書も亦往時の状況を偲ぶに甚だ興味あることなり。交通不便なる時代の真情言外に溢れたりと言うべし。また竹橋陣営の木材は、東京府下のものを伐出して使用せしこと明かにして、建築材料の歴史より見ても非常に面白し。これは大蔵省土木寮より本省への伺にして、壬申3月18日の日附なり。
(中略)
さて年表によれば、竹橋陣営は明治3年着手、同4年竣工せしが如し。然るに右公文書は明治5年の日附なり。よって4年竣工とあるは一部の竣工にして、他に増築ありたるものと解釈すべきか。公文書の信ずべき者なる事勿論なればなり。