わたしは性被害にあったことがある

結果から言えば、わたしは性被害に遭い、犯人は懲役二年執行猶予四年の実刑判決となった。

当時、わたしは医療系専門学校の四年生だった。三年生から四年生にかけ約二カ月の実習が三度行われる。国家試験の受験資格として病院や施設での臨床実習は必須だった。

それは三度目、つまり学生最後の実習地で起きた。実習指導者は外部講師として学校で授業も行なっており、生徒にも人気のある男だった。

一週目が終了した週末には実習生を労う歓迎会が開かれた。和気あいあいとした雰囲気のなかで酒を勧められた。施設の社員寮があり、飲んだらそこの空室に泊まればいいと言われていた。

その空室でわたしは被害にあった。

服を脱がされ身体中を触られ、執拗に性行為を迫られた。ようやく解放されたのは深夜だった。

震える手でハンドルを握り、車を発進させると冷たい秋の風が入ってきて少し泣いた。隣町のコンビニに車を停めて高校時代の親友に電話をかけ、一連の出来事を話し、男から解放された安堵からかそのまま寝てしまった。車の窓を叩く音で飛び起きた。あのときの親友の笑顔をわたしは忘れない。

その頃は、事件の重大さよりも実習が無事に終わるかという不安で一杯だった。「自分のなかだけに留めておけば何事もなかったかのように振る舞えるのではないか」「実習が中止になってしまったら国試を受けることができなくなる」「こんなことで人生が滅茶苦茶になるのはいやだ」浅はかな考えが浮かんでは消えた。結局、日曜日の深夜まで悩んだ末に、学校の教師に相談した。当然実習は打ち切りとなったが、学校側がすぐに別の実習地を用意してくれた。

実習期間と並行して裁判が始まった。警察に事情聴取を受けるのは気持ちのいいものではなかった。その一つに、現場を再現した部屋の中で人形を使い犯行の様子を事細かに記録していくというものがあった。犯人と自分の身体の位置、どんな言葉をかけられたか、下着はどこで取られたか、勃起していたか。女性の刑事さんが「わたしたちはあなたの味方だ、絶対に犯人を捕まえる。一緒に頑張ろう」と何度も言ってくれたのをよく覚えてる。この頃、県内の新聞社に匿名で事件についての告発があり学校に記者が来たことを聞いた。ようやくわたしは事件の重大さを自覚した。

相手側の弁護士からは「事件のことを報道され、加害者は十分に社会的制裁を受けた。あなたも公に出て事件を掘り返されるのは嫌でしょうから、被害届を取り下げて欲しい。」と言われた。謝罪文は受け取らなかった。

無事に実習を終え、あとは国家試験を受けるのみという頃になって、学校にある噂が流れた。「指導者と性行為をして単位を取った学生がいる」わたしのことだろうか。真偽は未だにわからない。というのもわたしはそれを友人伝いに聞き、学校に行けなくなってしまったから。事件後初めて声をあげて泣いた。ただただ悔しかった。何人かの友人とはそれきり疎遠になった。それからほぼ学校へ行くことは無くなり、卒業式は欠席した。

現在、就職して三年目となる。

わたしは希望の職につくことができた。

あれからずっと、事あるごとにあの出来事の持つ意味を考えていた。「事件があったから」悔しさをばねにして、国家試験や実習を乗り越えられた。「事件があったから」幾多の人々の支えの手をこれほどまでに感じることができた。「事件があったから」わたしは世の中にいる性被害にあった方々の痛みを知ることができた。

そう思うことで救われた気がしたのだ。自分に降りかかった不幸を、忌まわしい記憶を、綺麗な形で成仏させたかった。

それは不可能だった。

いまだに秋の夜の冷たい空気や人混みのなかで犯人の男に似た体型、顔をみると身体が硬直してしまう。その度自分のなかにまだ事件が残っているのだと実感させられた。

だからわたしは、これらの出来事に意味を持たせることをやめた。

人はよく人生を山や谷に例える。しかし辛い経験を乗り越えたから今があるというのは都合の良い解釈なのではないか。人生はのっぺりとした平野で、後ろを振り返れば無数の通過点が本の線となって静かに存在している。

「こんな事件、無かったらよかったなあ。」

馬鹿だと思うだろうが、そう言えるまでにわたしは三年かかった。口に出したら、過去の自分を否定するような気がしたから。

事件後、刑事さんや弁護士さんをはじめ多くの人が手を差し伸べてくれた。なかには涙を流して「あなたのことを助けたい」と言ってくれる人もいた。願わくば、もっと違う形で出会いたかった。

人生は無数の通過点の集合体に過ぎない。

さようなら、被害者のわたし。ずっと認めてあげられなくて、ごめんね。

未来はどこまでも自由だ。そうだよね。


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