オシムの言葉とその未来
2022年5月1日、イビチャ・オシムさんが80年の生涯を閉じました。謹んでご冥福をお祈りします。
このブログではサッカーの話題など出してこなかったので、急に「オシム」と言われても「ぽかーん…」な人もおられると思うので、簡単にオシムさんについて説明します。
オシムさんは、サッカーの日本代表やJリーグのジェフユナイテッドでも活躍したサッカー指導者・監督です。いまは消滅してしまった国である「ユーゴスラビア」の最後の代表監督であり、少し前のサッカーを知る人なら誰でも知っているであろう、ストイコビッチやサビチェビッチを擁するユーゴスラビア代表を指揮した指導者でもあります。
個人的には「指導者」という言い方がしっくりきていて、記者会見やインタビューで発せられる哲学的な言葉が印象に残る人です。サッカーにおいての練習方法も独特で、その練習を体感した選手に言わせると「頭が疲れる」練習であり、そういった練習を経てみせるサッカーも「考えるサッカー」と言われました。ただ、これはサッカーに関する表面的な知識が重要というよりも、サッカー哲学のようなものが重要であり、その哲学に向けた「思考」が重要だと教えていたように思います。練習自体も、技術向上や戦術の表面的理解の向上を目指すというよりは、多くの「場面」における選択肢をどれだけ増やせるか、そして、その選択肢の中から如何に決断するかを問うような練習が多かったように思います。
記者会見やインタビューでも、サッカーそのものの話題ではなく、ときに哲学的な問いかけを記者に投げかけていました。ただ、こういった「人生論」のような問いかけがサッカーに結びつかないかといえばそうではなく、サッカーにおいてのあらゆる「決断」が人生においての「決断」にどうつながるか、そして、その「決断」の背景として「哲学」を持つことが如何に重要かを教えてくれていたように思います。
オシムさんが率いるチームのサッカーは、決まった「型」のようなものがあまりありませんでした。それこそ、選手たち自身が「考えるサッカー」であり、選手構成によって、「時に美しく」、「時に力強い」、そういったサッカーを魅せていたように思います。
日本代表を率いていましたが、志半ばにして病魔に倒れてしまったことは、今となっても大きな損失だったように思います。あのサッカーが選手たちの中で消化できれば、勝つ勝たないは別として、世界の人たちの「記憶に残る」サッカーを披露できたのではと思います。
ただ、日本には、ジェフユナイテッドで指導を受けた選手たちをはじめ、その指導を自分なりに消化したであろう選手や元選手たちもいます。今も現役を続ける遠藤保仁選手、そして、引退をしたものの指導者を目指されている阿部勇樹さん、中村憲剛さんなどは、鍛えられた「サッカー脳」のお陰で長く現役を続けました。引退した選手たちは、その解説やサッカー論を聞く限り、指導者としての未来を期待させてくれる人たちばかりです。
オシムさんは亡くなられてしまいましたが、日本の地に多くの「種」を蒔いてくださいました。その指導を受けた選手、練習から「感じること」のできた選手たちが、指導者となって自らの「考えるサッカー」を披露するのはこれからです。オシムさんがその姿を見ないまま逝ってしまったことは残念ですが、今後の日本サッカーの未来を期待してこの投稿を終わります。
わたしは、サッカーのいちファンでしかありませんし、オシムさんに会ったことすらありません。ただ、オシムさんにはいろいろ教えていただいたように思います。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
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