猫とわたし。わたしと猫。
午後六時半。いつも通りの時間に家に帰ると、今日もチコが出迎えてくれた。
「にゃー」
「おかえりなさい」と言っていてほしいが、たぶん「帰ってきた!かまえ!」だろう。
チコは、2年ほど前から家猫になった。いわゆる家の中だけで過ごす猫だ。ただ、それ以前は外にも出ていた。富士の麓の片田舎だったわたしの街は、近くにイオンができるほどの地方都市に発展していた。
家を出ると2日ほど帰ってこない。帰ってくれば、どこでされたのか家を出たときとは違う首輪をしてくる。足を引きずって歩いている。そんなことが少しずつ出てきた。他の家で幸せになるならまだいいが、どうやら外でいじめられていたようだ。しかも、猫でなく人っぽい。
わたしはそれを深刻にとらえた。それからは家から出さない選択をした。ただ、チコにとってそれが幸せだったかは今でもわからない。
チコは外に出なくなったことでだいぶ丸くなった。いわゆるデブ猫。見た目は丸くてかわいらしいが、どう考えても太り過ぎ。外に出ていた頃と同じように食事を取っているのだから当たり前だ。そこはわたしが制限してあげなければならない。でも何度も鳴かれるとあげてしまう。自慢じゃないが家自体はそこそこ広い。ただ、そうは言っても運動量は格段に落ちた。さらに言えば食べること以外の娯楽があまりない。キャットウォークもある。一緒に遊ぶ道具もなくはない。ただ、それだけでは外に出ていたころの運動量には足りない。
家で匿い、家で一生を全うすることがペットにとって幸せ。それはなんとなくわかる。なので家猫になる前に外に出していたのが失敗だったのだと思う。ただ、猫にはやっぱり外での生活を楽しんでもらいたいとも思ってしまう。私自身がチコだったらどう思うか。
外での生活にはリスクがあった。でも一生の生活を縛られるほどのリスクだったのか。わたしは家から出たい。窓の前でこんなにアピールしても出れない。あなたが心配してくれるのはわかる。でも出たい。外の世界に放り出したのはあなただ。なのに何故あなたはわたしの生活を縛るのか。
そんなことを思われていそうで恐い。ただ、わたしの前では腹を出して仰向けで寝るようになったチコが、そんなことを思っているようにも見えない。
やはり、いまの状態が幸せなのだろうか。答えは出ない。外に猫がいることが許容され、少しの心配はあるものの、コミュニティ全体が猫を見てくれる時代は終わった。でも、そんな時代は再び来ないのだろうか。正直むずかしいとは思う。ただ、「猫と人間が共生する社会」を妄想するぐらいは許してほしい。
「にゃー」
「今日はあそこへ行ってきたの」。猫たちの「にゃー」がそんなことを言っていたらいいなと思う。そのためには「猫と人間が共生する社会」を真剣に考え、いまある"家猫"という当たり前に疑問を感じ、わたしたちの猫をコミュニティ全体で見るような仕組みを考える必要がある。
どこまでいっても人間都合で動物を利用する。それは変わらないだろう。でも、少しずつでもいいから種としての多様性も視野に入れ、猫なら猫、犬なら犬、鳥なら鳥本来の姿を取り戻させてあげたいとも思う。
チコの「にゃー」という声を聞き、そんなことを思ってしまった。