きわめて洗練された味覚を持つ読者

小説は自由です。
べつに、一文がどれだけ長かろうが、敬体と常体が混在していようが、主語と述語の関係がねじれていようが、!や?のあとに空白がなかろうが、句読点の打ち方に規則性がなかろうが、好きに書いたらいいのですよ。

ただ、一般的に「読みやすい文章」「読みにくい文章」というものがあり、その基準を授業では教えるようにしています。

ちょうど、ウンベルト・エーコの『文学について』(岩波書店)を読んでいたら、こんな一文がありました。

一方には容易に満足を得られるストーリーにしか興味を持たない読者がいて、他方にはきわめて洗練された味覚を持った何よりもまず言語に関心を抱く読者がいるとして、わたしたちはこのようなレヴェルの区別を意識的に理解しておかなければならない。  

それな!
うんうん、わかるわかるー。

というように、文章のテイストが変わると気持ち悪いじゃないですか。
でも、たぶん、気にならないひとは、気にならないのでしょう。

共感覚、と呼ばれるものがあります。
数字に色がついて見えるとか、音を聴くと形が見えるとか、共感覚は「ひとつの感覚の刺激によって、ほかの感覚が無意識に引き起こされる現象」なのです。

文字に色がついて見える「色字」のひとは結構いるようですが、私の場合、文章を読んでいると、味として感じることが多く、これも共感覚の一種なのだろうという気がします。

書店で好きな作家の新刊本を買って自転車の前かごに入れて帰路を急ぐときの感覚と、ケーキ屋さんでお気に入りのタルトを買って自転車の前かごに入れて帰路を急ぐときの感覚が、まったくおなじ。
ページを開いて文章を読むときと、フォークでタルトを刺して口に運ぶときの感覚が、まったくおなじ。

おいしい本もあれば、口に合わない本もある。読み心地と舌触り……。文体と食わず嫌い……。「文章を味わう」という言い方をしますが、比喩ではなく、実際に味覚として感じるのです。

おそらく、シナプスの問題で、文章を読むときに使う脳の部位と、食べものを味わうときに使う脳の部位に、過剰に刺激を与えすぎた結果、神経回路が活性化され、しかも、幼少期の経験に偏りがあり、ほかの脳の部位があまり発達していないため、そのように処理されるのではないかと……。

私は、小説を書く上で、自分自身とおなじように「きわめて洗練された味覚を持つ読者」に向けて書いているのだと思います。

しかし、一方で「そこで勝負をしていない小説」があることも理解しているので、学生の作品を指導するときには、多層的な読み方を意識しています。

ちなみに、エーコの文章は、以下のようにつづきます。

そうだとすれば、わたしたちは『モンテ・クリスト伯』を、第一のレヴェルで読み、完全にその虜となって一つひとつの展開に熱い涙さえ流し、そして第二のレヴェルでは、まったく正当にも、文体論的な進展から見れば書き方が下手とであると認識し、それゆえひどい小説だという結論を下さなければならないだろう。そうではなく、『モンテ・クリスト伯』のような小説の奇蹟とは、書き方は下手なのにフィクションとしては傑作であるということである。

日本語に翻訳され、なおかつ、作家の手による翻案小説を読んだ身としては「書き方が下手」と言われても、いまいち、ぴんとこないのですが、言いたいことはすごくわかる……と思ったのでした。



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