Spinoza Note 43: 知性の役割(第3群-2)
最後のグループ、「知性」に関する定理31と30をみていく。まず定理31から検討する:
Eliot訳:An understanding in act, whether it be finite or infinite, as also
will, desire, love etc. must be included under naturam naturatam, and not under natura naturantem.
Elwes訳:The intellect in function, whether finite or infinite, as will, desire, love, &c., should be referred to passive nature and not to active nature.
高桑訳:現実的な知性は、たとえ有限であっても無限であっても、意志、欲望、愛などと同じように、能産的自然ではなく、所産的自然に数え入れなければならない
佐藤訳:現にはたらいている知性は、それが有限であれ無限であれ、意志、欲望、愛などと同じように「産み出された自然」のものとされなければならず、「産んでいる自然」のものとされてはならない
産んでいる自然、産み出された自然については定理29の備考を読まなければならぬ:佐藤訳より
「産んでいる自然」とは、おのれのうちに在って、おのれを通して念われるもの、言いかえれば
実体の永遠でかつ無限な有りかたを表現するような属性、つまり
自由原因として考察される限りでの神のことを解るべきである。
「産み出された自然」とは、神の自然の性の、言いかえるなら
神の属性一つ一つの、必然から出てくる一切のものである、つまり
神のうちに在り、神なしには在ることも念われることも出来ないものと観察されるかぎりでの、神のもろもろの属性の様態すべてである
すべてが神と言ってきたけれども、実は二つに分けられる、ひとつは作る神、もうひとつは作られる神ということだ。人間知性を「自由原因としての神」と考えたくなるが、そうではなく、あくまでも「作られたもの」との主張である。被造物としての分をわきまえなさいということだ。
最後に定理30を検討する:
Eliot訳:An understanding in act, whether finite or infinite, must comprehend
the attributes and affections of God and nothing else.
Elwes訳:Intellect, in function (actu) finite, or in function infinite, must comprehend the attributes of God and the modifications of God, and nothing else.
高桑訳:現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の諸属性と神の変様を把握しなければならない。そしてこれ以外の何ものも把握しない。
佐藤訳:現にはたらいている有限な、または現にはたらいている無限な知性は、神の属性と神の変容を包み懐くはずで在り、他のものは何も包み懐かない。
神の属性(相対的一者)と様態は知性で把握できるが、絶対的一者は知性で把握できないという主張だ。しかも無限な知性であっても絶対的一者は把握できないという。しかし、証明は何か不完全な気がする:
(公理6)真の観念はその観念対象と一致しなければならない
知性のうちに対象というありかたで含まれるものは、必ず自然のうちに与えられるはずである
しかるに自然のうちにあたえられるのはひとつの実体だけ、つまり神だけだ
また(命題15より)(自然のうちにあたえられるのは)神のうちに在り、神なしでは在ることも念われることもできない諸変容だけである
それゆえ、現にはたらいている有限な、または無限な知性は、神の属性と神の変容を包み懐くはずであり、ほかのものは何も包み懐かない
この証明を読む限り、様態が把握できるのはわかるが、属性が知性によって把握されることは確証できないように思われる。そのことは公理6に含まれているのかもしれない。「真の観念」に属性が含まれるのは十分あり得ることだ。
定理31と30を合わせると、次のようなことがいえる:
人の知性は神によって与えられた(所産的自然だ)
知性は属性と様態を把握できる
人は知性によって属性と様態を把握できるが、その知性は所産的自然であって、能産的自然ではないということが要点だろう。人は神に似せて作られたが、神の「産み出す力」は引き継いでいない。