Spinoza Note 45: 神の技を認識する知性

前項でみた「神の能力」に関する定理36から34と「産出の必然性」に関する定理33と32は宇宙における人間の位置を定めるものであった。神は物事を生成・展開する能力であり、その出来事のなかに我々がいる。あるいは我々が出来事である。すべてが整然とした秩序の下に働いており、神から与えられた知性をただしく行使すれば、為すべきことが解り、天命を生き切れる。

定理31と30は知性(の役割)に関する言明である。前項で意志が知性の様態であることを説明するとき定理31に言及した。知性は所産的自然である、有限でも無限でも、という話だった。「P29注 所産的自然とは、神のもろもろの属性の様態すべてである。」

知性 定理31と30

属性・思惟の様態である知性が何を認識できるか。定理30によれば、「諸属性と変様」である。ということは暗に実体を認識できないとしている。知性が様態であり、それが認識できるものが諸属性と様態だということをどのように理解したらよいのか。

このあたり、なぜそうなっているのかという説明がない。定理30の証明は知性が属性・様態を認識できる原理を説明している。しかし、何のために認識するのかという目的が欠けている。なぜ無知であってはいけないのか。

知性は属性である思惟から生じた様態である。元は神から発している。神が知性を作り出し、人間に付与した。「様態を知れ」とは、他の人間知性を知れということでもある。大自然を隅々まで調べよという意味でもある。なぜ神がそれを欲するのだろうか。

Spinoza は答えないが、イスラム神秘主義によれば「神が自分自身を知ること」だからだ。創造の核にある神は、様態という末端で起きていることを関知しない。我々から神がみえないように、神から我々が見えない。象や熊、森が見えない。しかし神がすべてを知りたがるので、我々が神を助ける。我々は神から知性を授かっているから、我々が知ることは神の(持つ)知識となる。我々人間が他のもの(様態)を知るよう努力するのは、全てを知りたいという神の欲求に応えるためだ。

無知は罪である。なぜなら、神から命を与えられながら神の期待に応えない。天命を知らないから、運命を全うしない。そうして世の中を乱す。清いものを穢す。ほかの者を惑わし、混乱させ、道を踏み外させる。おそらくそんなことを Spinoza は考えていたのではないか。政治を論じるところで何か書いているだろう、いずれ確認する。

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