Spinoza Note 44: 能力を発揮する神

第1部を最後まで読み通して、ようやく全体像がみえてきた。読み方としては、やはり「神の能力」に関することとしてまとめた定理36から34から始めるのがよく、それらに Spinoza の宇宙論が表現されている。

Spinoza は物事が生ずる様子をみている。神がいかなる存在かということより、神が「何をするのか」ということを問いの中心にしている。神は世界を作り、維持する。Spinoza はその方法に関心がある。そして、「神が何者であるか?」という問いに対して、「無限」とか「永遠」といった曖昧な答え方をする。なおも問い詰めると、「神を直接、知ることはできない」という。「神はこうあるべきだ」ということを理詰めで考えることは出来る。「あなたもそうしなさい、そうすれば神がわかる」という。

無神論者だと弾劾されたり、マルクス主義思想の源泉であると言われたりするのも納得だ。Spinoza のいう神は皆が望む神でなくともよい。皆が望む神とは、いつも我々のことを気にかけてくれていて、困ったら助けてくれる存在だ。そういう優しさに溢れた神はどこにも出てこない。むしろ我々のことに無関心で、苦痛や苦悩を意に介さず、摂理に則って機械的に世界を動かしていく存在だ。神というところを「自然」や「宇宙」に置き換えて何ら不都合がない。

神の能力を表にまとめた。定理14以前のもの(定義、公理を含む)は背景を青として区別した。定理36が最後に置かれ、結論に相当するものとして「全ては本性で決まる」という。物なら物理だし、人の世なら社会や経済の法則に支配される。人なら遺伝(生まれ)と生育環境(育ち)で決まる。科学技術に依存している現代人にとって疑いようのない常識だ、「神」を「自然」に置き換えるだけで通用する。

神の能力 定理36から34

Spinoza が書いていることが時々ややこしくなるのは、「物」と「生き物」を区別しないからだ。それは「産出の必然性」に関する主張で特に著しい。Spinoza の時代の科学(それはまだ自然哲学と呼ばれていたが)はニュートン物理学である。初期状態が決まれば最終状態も決まる。一方から他方が計算できる。そこに偶然がはたらく余地がない。

産出 (production) の必然性に関する定理を表にまとめた。定理14以前のもの(定義、公理を含む)は背景を青として区別した。

必然性 定理33と32

定理33をみてみよう。ニュートン物理学を人の世や人の心に適用するから齟齬が生じる。現代なら、決定的に振る舞う系でありながら初期状態から最終状態が予測できないものが知られているし、確率論をとりこんだ制御理論もある。物の理に対する理解がこの400年で相当進んだ。だから、現代人の感覚で Spinoza の「必然性」の議論を理解するのは困難だ。「必然性」の意味を現代的に読み換える必要がある。たとえば「因果関係に支配される」と解釈し直せば、十分成立する。システム理論的に再解釈すれば済むことだ。

しかし定理32はどうだろう、人の自由意志を否定できるか。それを考える前に、 Spinoza が意志をどのように捉えているかを検討する必要がある。Spinoza の宇宙では実体(神)があって、そこから属性が生まれる。属性には延長(肉体)と思惟(精神)がある。思惟から知性が生まれる。その時点で知性は様態である。その知性から意志、欲望、愛が生まれる。そのような観点では、意志は知性の産物であり、様態の様態である。

この点について工藤&斉藤(中央公論社)は次のように解説している:

スピノザは「短論文」の第二付録で、知性あるいは観念が思惟の属性のもっとも直截な様態であり、意志、欲望、愛などの他の思惟の様態は、この知性あるいは観念から導き出されると言っている。たとえば、人を愛すると言っても、愛される人の観念あるいは認識がなければ、愛は生じてこない。つまり知性の認識は意志、欲望、愛などに先立ち、対象に関係するが後者は知性のように対象に直接関係しない(第2部公理3参照)

(工藤&斉藤 中央公論社)

この理解にたつなら、意志は知性による推論、すなわち計算である。そうであれば定理32「意志は自由原因ではなくて、必然的な原因としか呼ぶことができない」に納得する。意思決定が計算であれば導き出される答え、すなわち決断は必然的なものだ。合理的な決定に先立って、制御できない衝動みたいなものが人を突き動かすとは考えない。逆に言えばそういうものを Spinoza は意志と呼ばない。どこまでも冷静なのだ。

冷静で合理的な判断が意志であるなら、この定理を証明するために言及される定理28「人は他人に影響されて生きる。影響を与えた人も別の人に影響されて生きている。そのようにして無限に影響を与えた人を遡っていける。」で描写されているのは、「意気に感ず」みたいな義理人情の世界ではなく、ゲーム理論やナッシュ均衡みたいな予測を思い浮かべなければならぬ。そこに情や偶然が関与する余地がない。

同様に証明にて参照される定義7「自己の本性の必然性だけから存在し、また、自己だけから、行動するように決定づけられているものは、自由なものといえよう。」を、非合理あるいは不条理な干渉を排除し、純然たる計算で意思決定できる喜びをほのめかしている様に読める。

少し脱線するが、そうすると「自殺」はどうなのだろうと気になる。自殺も必然なのだろうか。これに対しては Spinoza は、「いや、それは外の力に強制されたのだ」と書いているらしい(第4部定理20備考)。本来の意志の発露を妨げられたということか。そういうことを考えてくれているのはうれしい。読み進むのが楽しみだ。

話の筋を戻す。冒頭で Spinoza の神について「我々のことに無関心で、苦痛や苦悩を意に介さず、機械的に世界を動かしていく存在だ」と書いた。神に見捨てられた我々は不幸なのだろうか。いや、そうではない。我々は神に助けを求める必要が無いのだ、なぜなら我々自身が神であるから。正しく生きていればそれで幸せなのだ。楽観的でいいなぁと思う反面、悪政を肯定することになりはしないかと心配になる。

いま、私は自由に自分自身を生きているのか、それとも誰かに強制されて不本意な生を送っているのか。どのように判断するのだろう。単なる現状肯定ではなく、誤りや歪みを正していくことが狙いだとしたら、我々は何を頼りとしたらいいのか。読み進めれば、いずれ答えがみつかるだろう。神と一体となって、与えられた能力を発揮することが幸せへの道だと予感している。

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