Spinoza Note 42: 神の能力(第3群-1)
ここから主題が変わり、能力や知性の話になる。定理36から34までを「神の能力」とラベル付けし、定理31と30を「知性」と名付けた。「神の能力」はハードルが高そうだから後回しにしたいところだが、それをみてからでないと「知性」に進めない気がするので、勇気を振り絞って「神の能力」を検討する。定理36からみていこう:
Nihil existit ex cujus naturâ aliquis effectus non sequatur.
Eliot訳:Nothing exists from the nature of which some effect does not follow.
Elwes訳:There is no cause from whose nature some effect does not follow.
高桑訳:その本性からある結果が生じてこないようなものは、何一つ存在しない
佐藤訳:その自然の性から何らかの結果が出てこないものは何も実在しない
Ethica第1部を構成する36の定理のうち、もっともわかりにくい定理だ。Jarrett はこの定理は論証できない、つまり Spinoza の説明は証明になっていないという。こういう反語表現はそれだけでわかりにくい。肯定形に直してみよう。何も存在しない、何一つない、ということは「すべてが...だ」ということだ。「その本性からある結果が生じてくる」がそれら全てについて言えることだから、「全てのものはその本性からある結果が生じてくる」という主張だろう。それをどう検証するか。
佐藤訳で追跡する:
(定理25系)実在するものは何であれ、神の自然の性、言いかえれば有りかたを或るきまった決定されたしかたで表現する
(定理34)つまり、実在するものは何であれ、すべての物の原因である神の力を或る決まった決定されたしかたで表現する
(定理16)よって、それから何らかの結果が出てこなければならない
神の活動 essentia に伴って物事が生起するから、すべてのもの(存在)が神の「有りかた」をそれぞれの方法で表現しているのは確かだ。次に「神の力」という用語が出てくるが、すべてのものが神の有りかただけでなく、神の力も反映されていると言われると、正しそうな気がしてくる。そして神は必ず何かを生じさせるから、神の分身である「もの」から何か生じるのは当然だろう。
ここでの「実在するもの」が漠然としているが、ひとつの解釈として「人間」とすると定理が表現しているものが像を結んでくる。神の創造物である人は「神の有りかた」を反映し、「神の力」を示している。神が自分に似せて人を作ったという伝説があるくらいで、人間が神の縮小版だというのはわかりやすい話だ。多少の能力も受け継いでいるだろう。第3の点、何らかの結果を出せるはずというところが少し難しい、これは信仰だから。
人間は神の創造に関わっている、創造の一部を担っているということだと思う。このような考え方は一神教に特有で、そこからほかの生物を好きにしていい、家畜化していいんだという考えが出てくる。ネズミだったら実験で殺していいというのも同様だ。あるいは逆に、地上に棲息するすべての生物に対して責任を持たなければならぬ、という環境保護論が出てくる。
結論を保留して次に進む。定理35を検討する。
Quicquid concipimus in Dei potestate esse, id necessariò est.
Eliot訳:Whatever we conceive to be in the power of God is necessary.
Elwes訳:Whatsoever we conceive to be in the power of God, necessarily exists.
高桑訳:神の能力の中にあると考えられるものはすべて必然的である
佐藤訳:神の能力のうちに在ると我々が念うものは何であれ必ず在る
定理34を根拠としているからそれも一緒に検討する:
Dei potentia est ipsa ipsius essentia.
Eliot訳:The power of God is his essence itself.
Elwes訳:God's power is identical with his essence.
高桑訳:神の能力はその有り様そのものである
佐藤訳:神の力は神の有りかたそのものである
定理34と35を続きで証明していく。
(定理11)神の有り様の必然性のみから神が自己原因である
(定理16)P16 神の本性の必然性から、無限に多くのものが、無限に多くの仕方で生じてこなければならない
(定理16系1)神は無限知性によって捉えることの出来るすべてのものの動力因となる
ゆえに神自身とそしてすべてが、在り、かつはたらく神の力は、神の有りかたそのものである・・・ここまで定理34の証明
神の能力のうちにあるものは何であれ、神の有りかたから必ず生じ来るというように、その有りかたのうちに包み懐かれていなければならない
よって定理35が成り立つ:神の能力のうちに在ると我々が念うものは何であれ必ず在る
最後がわかりにくいが、「神の能力」は必ずすべて発揮されるという信念なのだろう。「神の有りかた」に加えて「神の能力」を考える理由がわからないが、何か活動するのであればそれを可能にする能力があるはずだと考えるのだろう。物事がなぜこのように動いているのか、働いているのかを説明するため、「活動を可能にする能力」を措定したいのだ。この点が能産的自然と所産的自然の区別につながっていく。(次項で検討する)