Spinoza Note 03:Spinoza のレンズ
Spinoza がレンズを作っていたことが知られているが、そのことが彼の思索にどう影響したのだろうか。それを考えるにはレンズ作りが彼の生活の中でどのような位置を占めていたのかを知る必要がある。
Spinozaがレンズ作りで生計を立てていたと信じる人は多いが、その必要はなく趣味だったようだ。思想家なので収入がなかったが、友人らの寄付で生活が成り立っていた。後年、ハイデルベルグ大学から教授職に就くよう要請があったという逸話があるが、その収入が寄付金とさほど変わらなかった。そのため経済的な理由で教職に就くことがなかった。レンズ職人が密かに高尚な考えを巡らせていたという幻想はこれで消える。
ではどのようなレンズを作っていたのだろうか。この時代、天文学が発展したから望遠鏡を作ったのかと思ったが、そうではなく眼鏡や顕微鏡のレンズを作っていたらしい。Beth Lord, Spinoza's Ethics An Edinburgh Philosophical Guide ではごく簡単にそのように述べられている。冷静に考えると望遠鏡用のレンズは大きく、製作に時間を要する。考えることを仕事としていた Spinoza がレンズ作りに多くの時間を割くはずがない。顕微鏡用レンズは小さいから、製作時間も短かっただろう。片手間にやるなら顕微鏡用のレンズだ。
Anthony van Leeuwenhoek は生涯に500を超える顕微鏡を製作したという。 ( ローラ・J・スナイダー 著, 黒木 章人 訳, フェルメールと天才科学者 17世紀オランダの「光と視覚」の革命 ) Spinoza が Leeuwenhoek にレンズを納品していたと考える人がいるが、事実なら Spinoza が作ったレンズは多くが顕微鏡用だろう。事実でないとしても顕微鏡用レンズの需要は多かったと思われる。
顕微鏡との関わりが Spinoza について何を教えてくれるだろうか。見えるものを素直に信じないところが Spinoza にあるが、それには顕微鏡で見える世界が影響しているのではないか。まず Spinoza が挙げる4種の知識獲得の方法を読み返そう:(以下、「知性改造論」より引用する)
[A11] 伝聞、あるいはいわゆる恣意的な記号にもとづいて私たちが手にする知得
[A12] 行き当たりばったりの経験から、すなわち知性によって規定されることのない経験から私たちが手にする知得。この経験がこのように言われるのは、たんにそれがたまたまそのように生じ、かつ私たちがそれと食い違う別の実体験をもたないという理由でのみ、私たちにとって動かしがたいものとしてとどまるだけだからである。
[A13] ものの本質が別のものから結論されるが、しかし十全な仕方で結論されるわけではない場合の知得。こうしたことが起こるのは、私たちが何らかの結果から出発して原因を推論するときか、あるいはつねに何らかの特質をともなう何らかの普遍的なものから結論が引き出されるときである。
[A13] 最後に、ものがその本質のみを介して、あるいはその最近原因を認識することを介して知得される場合のものである。
顕微鏡でみる世界は3番目の知識と関連する。続く文章から関連する説明を抜き出す:
[B21] [III-2] 視覚の本性を知り、それと同時に、ひとつの同じものが、遠く離れて見られる場合には、それを近くでながめる場合より小さく見えるという特質を視覚が持っていることを知ったのち、私たちはそこから、太陽が現に見えているよりも実際は大きいことや、そのほかこれと同様の事柄を結論付ける。
ここで Spinoza が述べているのは裸眼で観察できる太陽のことだが、同じことが顕微鏡で見る世界にも通用する。スナイダーは顕微鏡を使って微細なものを見る際の困難を指摘する。思い返せば子供のころ顕微鏡を覗いても対象がはっきり見えず、目をレンズに近づけたり離したり、調整したものだった。それに、まつ毛が入り込んだりして、視界を遮ったりする。見るべきものがどれなのか、それがわかるまで時間を要した。そのことからだと思うが、Spinoza は第3の知識獲得について次のように述べている:
[B28] 他方で、第三のものにかんしては、或る点において、確かに私たちはものの観念を手にし、そのうえでさらに誤謬の危険なく結論を引き出すというべきであろうけれども、とはいえこの様式は、それ自身においては、私たちが自らの完全性を獲得する手立てにはならないだろう。
参考までに文末に原文と英訳を載せておく。この言明からは観察したものに対する不信が読み取れる。見たものを素直に信じない。その不信は顕微鏡による観察の困難に起因すると想像する。顕微鏡下に広がる微小な世界に感嘆しつつ、さらに細かいところが観察できる顕微鏡を作ったとして、それを以てすべてを見たといえるだろうかと思いを巡らせたはずだ。Spinoza は多分、無限小について考えたのだ、それは「見えない」のではないかと。
天体望遠鏡は遠くにあるものを近くに見せる。しかし我々は芥子粒のようにみえるアンドロメダ大星雲が本当は巨大であることを知っている。にもかかわらず望遠鏡で見るアンドロメダ大星雲は無限大の概念を伝えない。無限に遠いものは我々の認識を超える。だから手の届かないものだと諦める。しかし無限小は手の中にある。ここあるはずなのに見えないという喪失感。Spinoza のいう無限はこれだろう。
参考文献:
知性改善論, 講談社学術文庫, バールーフ・デ・スピノザ, 訳:秋保 亘
世界の名著〈25〉スピノザ,ライプニッツ, 下村寅太郎 編, スピノザとライプニッツ(下村寅太郎) スピノザ エティカ(工藤喜作,斎藤博訳) ライプニッツ 形而上学叙説(清水富雄,飯塚勝久訳) モナドロジー(清水富雄,竹田篤司訳) 小品集(清水富雄訳), 中央公論新社
Spinoza's TRACTATUS DE INTELLECTUS EMENDATIONE : A new translation, April 2020, DOI:10.13140/RG.2.2.24647.24485, Authors: Amrik Singh Nimbran.