ジル・ドゥルーズ著「フランシス・ベーコン 感覚の論理学」を読む前に
年末年始の休みにジル・ドゥルーズ著「フランシス・ベーコン 感覚の論理学」を読んでいる。発端は数週間前に別の本を読んだことだ。その本とは、「天才たちの日課 クリエイティブな人たちの必ずしもクリエイティブでない日々」(メイソン・カリー著、フィルムアート社)である。近所の図書館で谷川俊太郎や現代詩の本を3冊借りたついでに何となく借りた。著名人がどのような日常を送ったのか、1ページか2ページで短くまとめられている。ひとつの項目を読んでも何かを学んだ気がしないところが心地よく、日々拾い読みしているうちに他の本より先に読み終えてしまった。
「天才たちの日課」を読むと、少なからぬ人が夕食時に酒を飲み、酔い潰れて寝てしまうことに安堵する。中には酒に依存している人もいて、創造力に恵まれた人は大変だと気の毒に思う。作家は酔い潰れたら書けなくなるが、画家は意識を失っても描ける。ベーコンがそういうようなことを語っていて道理だと感心した。ベーコンといえば部屋が常軌を逸して荒れていた。人間関係も非道い。破滅的人生を糧に芸道を確立したことに憧れる。前夜どれだけ飲んだくれても翌朝いつも通り起きて絵を描き、午後にはパブに行って昼食を取り、以降アルコールが絡んだ社交に勤しむ。そういえばこの人の絵が好きだったと思い出した。
ベーコンについて書かれた本を読みたくなった。画集が数多くメルカリやヤフオクに出品されているが、それらの間にインタビュー集や評論を見つけた。Deleuze (ドゥルーズ)がベーコンについて書いている。1980年にDeleuzeがベーコンについて書いていた。これを読まねばならぬ。近所の図書館に収められていたので、頼んで書庫から出してもらい、借りた。貴重本でないが開架書庫になかったのだ。書棚を有効活用したくて奥に仕舞い込んだのだろう、借りる人が少ないと考えて。書司は正しかった、手にした本に読まれた痕跡がなかった。
三日間で全17章を一巡したが、最初のうちは苦しかった。Deleuze 特有の言葉遣い、言い回しに戸惑う。宇野邦一訳(河出書房新社)で読んだが、書かれていることが頭に入ってこない。思わせぶりなこの口調はどこから来たものか。英訳をみても、原語(仏語)で読んでも印象が変わらない。Deleuze の語り口に慣れるしかないと観念して取り組んだ。Deleuze といえば40年前にリゾームを訳で読んだだけで、全く理解できなかった。それ以来、どのくらい自分が進歩したのか、試験だと思って読み進めた。
徐々に面白くなってきて、特に最後の二つの章、「16. 色彩についての注釈」「17. 目と手」が響いた。M. ポンティがセザンヌを通して書いたことをDeleuze はベーコンを通して書いている。思いのほか、Deleuze が自分に近いところにいたと知った。ベーコンの手法を論じる際、Deleuze がメシアンの音楽語法やベイトソンのイルカ言語研究に言及する。自分が興味を抱いてきたことが「感覚の論理」であったような気がした。
「感覚の論理」という題目の「感覚」は sensation なのだが、昨年 Reed の著作を読んでいたときに触れた概念でもある。生まれつき盲目だった人が突然目が見えるようになったとき、奥行きを知覚できるのかという議論があった。(ロックやバークレーの生きた時代。)目が見えず触ることによって奥行きを把握していた人は、視覚を得たとき、見えているものに奥行きを感じない。絵に奥行きを感じるのは、我々に触覚的経験があるからである。このことを踏まえてのことだろうが、Deleuze がベーコンの絵画について「目で触れる」ようなことを書いていて興味深い。
Deleuze は sensation を能動的に捉える。感覚の能動性について、その起源をスピノザの力能という概念まで遡って考えているようだが、そこまではこの本に書かれていない。しかし、ほぼ一年間スピノザを読んできた身には、スピノザのいう「喜び」が少し読み解けた気がしてうれしい。sensation を「わくわく感」と訳したらよいのではないか。ベーコンが具象でも抽象でもなく、図像 Figure を描いたという Deleuze の読みに感服する。具象画も抽象画もともに外部にある何かを表象する。図像は自足し、それ自体が意味を放つ。古代エジプトの神像のようなもの、と Deleuze が言う。
舞台の上で白鳥を踊るダンサーを観て、娘がベイトソンに聞いた。あのダンサーは白鳥を真似ているの? それとも白鳥なの?と。Deleuze がこの本で扱っているのも同じ課題、すなわち "a matter of fact" である。別の世界にある真理ではなく、今ここに顕現しているもの(宇宙的欲動)に注目する。パース流の記号論とは別のところから「美」に接近する方法を提示している。