Spinoza Note 09: 神は無限にある諸属性を通じて顕現する
定義6は神に関する説明である。これが第1章・定義集の頂点だろう。原文と諸訳を並べる。訳者による解釈の違いが興味深い。
Eliotの訳:By God I understand a Being absolutely infinite, i.e. a substance consisting of infinite attributes, each of which expresses an infinite and eternal essence.
Elwesの訳:By God, I mean a being absolutely infinite - that is, a substance consisting in infinite attributes, of which each expresses eternal and infinite essentiality.
畠中の訳:神とは絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
高桑の訳:神によって私は、絶対に無限な有、すなわち、それの一つ一つが永遠かつ無限な本質を現しているところの無限な諸属性を通じて確立している実体を、理解する。
神は "ens absolutè infinitum" と表現される。絶対無限の Being である、というところで諸訳は一致する。続く "substantiam constantem infinitis attributis" で "constantem" の解釈が二手に分かれる。ひとつは "consisting of" と読むものであり、実体が無限に多くの属性からなるという畠中の訳に相当する。もうひとつは "consisting in" と読むものであり、実体が無限な諸属性を通じて確立するという高桑の訳に相当する。前者は実体が属性の集合と等価であると読み、後者は実体が属性を通じて現れると読む。
前者の読みだと実体(=神)を属性に還元することになる。神は属性の集まりであると定義することになるが、それだと神を措定する意味がなくなる。ここは神と属性は別ものである可能性を残すべきだろう。ゆえに後者の解釈をとる。すなわち、実体が無限な諸属性を通じて確立すると理解する。(「確立する」の意味が曖昧だが、そのままにして次に進む。)
”quorum unumquodque æternam, & infinitam essentiam exprimit.”は「それの属性が永遠かつ無限な本質を現している」という読みで共通する。"essentiam" が「本質」と訳されるが、この点には異を唱え、Beingと解釈する。すなわち、「それぞれの属性が永遠かつ無限に活動する Being を現している」と読む。
ここでひとつ問題となるのが 'each' の scope である。「永遠かつ無限に活動する Being」が属性の数と同じく無限にある、つまり各属性が「永遠かつ無限に活動する Being」を現していて、それら無数の Being が並行して活動しているという読み方ができる。Eliotの訳だとそういう読みが可能だ。
もうひとつの scope では「永遠かつ無限に活動する Being」が唯一で共通しており、それを各属性が表現すると読む。各属性が「それぞれの方法で」 Being を表現するというように補足するとわかりやすい。Elwes はそこを意識して訳しているように見受けられる。" each expresses eternal and infinite essentiality" という表現で、 "expresses" の後に不定冠詞 'a' も定冠詞 'the' もつけていない。そのうえで 'essentiality' という抽象表現を用いている。抽象表現は複数のものを指し示さないから、Beingが無数にある解釈を除外する。
日本語訳はどうだろうか。「おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性」(畠中)は第一の解釈を許す。「それの一つ一つが永遠かつ無限な本質を現しているところの無限な諸属性」(高桑)も同様である。日本語には定冠詞・不定冠詞に相当するものがないから、曖昧性が残る。定冠詞・不定冠詞がないのはラテン語も同様なので、日本語はその曖昧さを保ったまま訳せる。訳者は助かるが、読者は二つの解釈の間で悩むことになる。
文法を無駄にもてあそんだかもしれない。実体はひとつ、Being は一者と Spinoza が言っているのだから間違った解釈は自ずから除外される。日本語に訳したとき、曖昧さが残るだけである。神の定義を解きほぐすと次のようになる:
神は絶対無限の活動 Being である
神は属性を通じて姿を現す
属性は無限にある
唯一の Being を各々の属性がそれなりに、そして部分的に現す
さて、ここで一つの問題が持ち上がる。前項で mode を有限なものとした。そして属性が mode だとした。(後記:これは間違い) そのことと「属性が無限にあること」は矛盾しないか? Spinoza 自身、それが気になったようで説明を加えている。
"Dico absolutè infinitum, non autem in suo genere" (私は「自己の属しているその類の中で」無限だと言わないで、絶対無限だと言っている。)
「類」はひとつの属性のことなので、各々の属性は有限と解釈してよいだろう。
” quicquid enim in suo genere tantùm infinitum est, infinita de eo attributa negare possumus" (なぜかといえば、自己の属する類のなかだけで無限なものは、それについて私たちは、無限の属性を否定することが出来る。)
これは上の解釈を補強する説明である。Spinoza は明確に各々の属性が有限だと言っている。
この補足から想像するに、mode は各々の属性を指す。各属性は有限である。しかし属性の「集合」は無限である。この区別は重要だ。しかし Spinoza の時代、集合の概念はなかった。Georg Cantor (1845 - 1918) の成果を受けて、今なら Spinoza が表現したかったのは無限集合だといえる。
「無限の諸属性」を無限集合で説明すると次のようになる。ひとつの属性を実数で表す。実数は有限である。実数の power set を作ると無限集合が得られる。これは全ての実数の可能な組み合わせ全部、と大雑把に理解してよい。(正確さには欠ける。)この「可能な組み合わせ全部」が無限だということを Cantor が証明した。「無限にある諸属性が総体としてひとつの Being を現す」という Spinoza の考えがこのように数学的に記述できる。Cantor もユダヤ人なのでそれを「アレフ0」と名付けた。アレフはヘブライ語アルファベットの第一文字である。「世界の始まり」を定義したと言いたかったのだろう。それは神である。
参考文献
A Newstead, 2009, Cantor on Infinity in Nature, Number, and the Divine Mind
Christian Tapp, On Some Philosophical Aspects of the Background to Georg Cantor’s theory of sets
M Brancato, 2023, CANTOR ON THE NOTION OF INFINITY IN SPINOZA AND LEIBNIZ