死刑存置論の最後の砦
「(亡くなった)妻も喜んでいると思います」。
京都アニメーション放火犯青葉に対する死刑求刑をうけてのある遺族の言葉である。過去には「理屈じゃないんです。犯人と同じ空気を吸っているのが嫌なんです」という遺族もあったとか。いわゆる応報感情である。
過去の自分を含め、死刑廃止論に傾くすべての人がぶつかる壁であり、砦が言いすぎなら躓きの石と言ってもよい。想定問答として「あなたの肉親が殺されても廃止論を主張できるのか?」というのがある。じつに手ごわい!
こうした応報感情を否定するつもりはないし、できるとも思わない。人類に普遍的でかつ根源的な感情だとも思う。にもかかわらず、世界200か国のうち廃止国が存置国の約3倍を占めるという事実の重さに日本人はもっと気づくべきだし、どのようにして応報感情を克服できたのかを問うべきだと思う。
いな、正確には「克服」したのではなく、廃止vs.存置の議論の土俵から応報感情を排除したのではないか、と思い至るのである。
応報感情は、いわば無限大である。飛躍するようだが、数学の証明や物理学の理論構築の過程で無限大が出てきたら、理論が破綻するのと同様に、客観的な法制度を議論する際に無限大を持ち込むのはルール違反なのではなかろうか。
刑罰論には応報論と目的論があるが日本における死刑制度は、応報論のなかでもとりわけ素朴で剥き出しの応報感情に阿った制度であり、判決から処刑までのプロセスが厳に秘匿されかつ恣意性にさらされている点(法務大臣がだれかによって処刑数も期間もバラバラ)でも、国の威厳を毀損するものであり、いちはやく廃止すべきものと思う。
一方で、今は皆無に等しい被害者遺族への支援制度を確立し充実すべきなのだと思う。それが無限大の応報感情へのせめてもの慰謝であり、場合によっては社会復帰への助けになる。