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「面倒な出会い」が持つ可能性。
出会いは、面倒だ。
出会ってしまうと、他人事ではいられなくなる。だけど、そうして他者と出会うことで、人は主体的になり、やりたいことが見つかるのだと思っている。
逆に言うと、やりたいことがないというのは、他者と出会っていないから、他者を通じて自己を見つめられていないからなのかもしれない。
今、他者と出会える場が、どれだけあるのだろう。
多くの情報はアーカイブされ、出会いはアルゴリズムで規定される(それがあるから探しやすいのだけど)。世界が広がったような気がして、実はより狭い世界に自らを限定している。
世界が狭くなったぼくたちは、異質な他者に対して、より排他的になり、自己を防衛する。そして、自分をより正当化していく。
「心地悪さ」というものと、どう向き合うのか、ということは、ぼくたちのこれからのテーマであるように思う。それは、言いかえると「うしろめたさ」との向き合いでもあると思う。
正直に話したい。
ぼくは、仕事でそれなりな数のイベントをつくったり、手伝ったりしている。そのときに「情報保障(聴覚障がいの方への配慮)」がないときがある。経費の関係で、手話通訳や要約筆記がつけられないときがある(もちろん、そこにプロフェッショナリティはなかったとしても、最大限の配慮はするつもりではある)。
そのとき、しかし、大きな「うしろめたい」気持ちに苛まれる。「心地悪い」気持ちになる。聴覚障がいの方にとって、入りづらい入り口をつくってしまったと。たぶん、あの人やあの人は来ない、あるいは、来れないだろうと。
「顔の見える」聴覚障がいの友人ができたときに、ぼくはそう感じるようになった。この嫌な気持ちと向き合わないといけなくなった。
出会いは、面倒だ。
だけど、むしろ、そこにこそ、社会がゆるやかに変わっていくきっかけが眠っているようにも思う。自分の中に生まれたその問いを離さずにいれば、きっとみんなで一緒に、新しい答えを導き出せる、そんな気がしている。
出会いは、たのしい。
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