つながること、問うこと、生きること。
場づくりについて学ぶオンラインスクール(『場づくりという冒険オンラインスクール』)を開催している。受講してくださっているみなさんとの対話が楽しい。その中で話したこと、考えたことなどをまとめておきたい。
◯他者とどうつながればいいのか。
よく、ビジョンが大事だと言われる。そうだろうと思う。バラバラな個人をひとつにまとめるための北極星を描くこと。それは、クリエイティブな作業だと思う。けれども、それだけでは圧倒的に足りない。どうもぼくにはそう思われる。なぜなら、ぼくにとってビジョンでつながることは(それだけだと)「脆い」からだ。
そう思うのは、どうしてだろう。
いろいろと考えてみると、そこに痛みや悲しみが含まれていない(ように見える)からだということがわかってきた。
ビジョンはおそらく、ほぼポジティブ。だって、目指すべきところだから。それは、希望に満ち溢れているはず。そこにおいては痛みや悲しみ、絶望などについては可視化されないことが多い。
元俳優である高知東生さんが「同じ苦しみを抱いたことのない人に相談することは難しい」と言っていた。彼の父親は任侠の人で、母親はその愛人。彼女(母親)は、彼(高知さん)が高校生の時に自死したらしい。
他者の苦しみや悲しみをそのまま自分の痛みに転換することはできない。同化することもできない。けれども、聴くことは可能である。ぼくはできる限りそうした部分をこそ聴いていきたいと思う。それは、他者のためにではない。あくまでも自分のためにだ。自分が聴きたいから聴く。
なにを感じ、どんな状態で生きてきたんだろう。どんな葛藤をして、どう落ちたり上がったりしてきたのだろう。人間の根底に触れた時に、まったく違うレイヤーの共感が生まれると感じるのは、ぼくだけなんだろうか。
共感というのはポジティブなものだけではない。いや、ポジティブなものに対してのそれは、共感しているように見えて、反射的に同感しているだけかもしれない。むしろ大切なことは、ある種ネガティブな部分への共感、共振のようなものだと思う。それがつながりを根底で支える。悲しみや苦しみ(グリーフ)が人を結束する。そこをつないでいける力をつけていきたい。
そして、そのレイヤーでつながった時にはじめてビジョンがその真価を発揮するのではないか。
◯あなたはどんな人ですか。
「あなたはなにがしたいですか」
「あなたはどうなりたいですか」
問い方が悪い、とぼくは思う。もちろん、この問いが力を発揮する時もあるだろう。あえて自分自身と向き合うために(あるいは向き合わせるために)そういう問いが必要な時もあるかもしれない。
けれど、自分との向き合いだけでは見えないことがある。いくら自分という存在を深掘ったところで、なにも見えてこない。皮肉だ。不思議なくらい見えてこない。そして、なぜか、自分以外との関係性の中にわたしらしさとあなたらしさが顔を出す。「あなたはなにがしたいですか?」という問いには限界がある。
「あなたはだれのどんな願いに震えますか」
「あなたはだれのどんな物語に揺さぶられますか」
「どんな瞬間に怒り、悲しみ、喜びますか」
「それはどうしてですか」
関係性を問う。その糸を手繰る。そうして見えてくるものがあるはずだ。
◯問い続けるとはどういうことか。
問うというのは、捨てないことであり、違和感を手放さないことだと思う。
問うということを行為として可視化するのは難しい。なぜなら、問うというのは、行為ではない部分も多いからだ。
むしろ、問うというのは「状態」のことかもしれない。それは、素材をしっかり頭の中に入れておきつつ、いろんな情報に触れたり、体験したりすること。そして、しかるべき時に引っ張り出してきて確認すること。
それは、「発酵」に近いかもしれない。
問うて出てきた「答え」というものは、お酒とか醤油、味噌みたいなものなのかもしれないなあ。
◯生きる意味とは。
基本的には生きる意味なんてないと思っているけれど、なにを残すかということには関心がある。自分の遺伝子を残すか。資産を残すか。事業を残すか。仕組みを残すか。
ぼくは、哲学やスタンスを残したいなと願っている。だからどこまでいっても、なにをやっているかには興味がなくて、どういう視座・視点で見ているか、どんな願いや哲学があるか、そこにどんな物語があるか、にしか興味がないんだなあ、と。