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つぶれてしまったじいちゃんの楽器屋。「資本主義」と「場づくり」をつなげて考えてみる。

「だいたいね、場づくりなんてやってる奴はクズで寂しがりでクソなんですよ」とtwitterで書いたところ、やたらと反応をいただいたので、最近クズなりにいろいろと考えていることなどを書いてみようと思う。

どうして、自分は「場」をつくるのか。
どうして、分かたれた関係性を編み直そうとしているのか。
なぜ、そうしたことが社会的にも要請されているのか。

なんか、そのあたりのこと。

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ぼくは幼少期、ピアノを弾いていた。母親が音楽の学校を出ていたこともあって、ピアノ講師をしていたからだ。4歳くらいのときに初めての発表会があって「ぶんぶんぶん」を演奏したっけ。うまく弾けたかどうかは覚えていないけれど。

大阪のじいちゃんは「楽器屋さん」をしていた。微かな記憶だけど、店内には大きなものから小さなものまでたくさんの楽器が所狭しと並んでいたような気がする。子どものぼくは、YAMAHAという文字がなんだかお気に入りだった。

けれど、その楽器屋さんはぼくが5歳くらいのときにつぶれてしまった。詳しいことは知らないけれど、じいちゃんは大きな借金をつくってしまったみたいだった。そしてそれがひとつのきっかけになって、ぼくの両親も散り散りになってしまった。

経済(または家計)の崩壊が家庭の崩壊を生むことを、ぼくは体感的に知っていたのかもしれない、と思う。

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以前、お客さんになることについてのもどかしさや無力感について書いている。

「経済成長」が「お客様化社会(待っていればだれかがなんでもやってくれると思う人が増えている社会)」を加速させ、さまざまな関係性の分断を促進した側面がある。それは今もなお、猛烈な勢いで進んでいる、とぼくには思われる。

お客さんであることは楽だけれど、本質的に他者と関係性を結ぶことを困難にし、「つくる」という行為を遠ざける。なぜなら、購入するということがそもそも関係性づくりと手間をかけることのショートカットだからである。

いまの社会は「お客さん」にならないと生きていけない社会になっている。それはつまり稼ぎがないと生きていくことができないという社会だ(当たり前すぎるけれど)。自分で生み出すことができなければ購入するしかない。そして、ぼくたちは生活に必要なほとんどすべてを購入することで生きている。その「便利な」システムの中にびっちりと埋め込まれてしまっている。ゆえに、経済の問題は、本当に重要な問題としてそこに常に存在している。

少し話は逸れる。

友人だったら定価以上のお金を払う(のが礼儀だ)、という考え方がある。わかる。その人の事業や仕事を応援するならば、きちんと対価(以上のもの)を支払う必要がある。けれどもぼく個人としては、友人が求めてくれた助けに対しては、あるいは自分ができることで友人に貢献することができるならば、お金という対価はそこまで求めないし、なくても問題ないという考え方に立っている(ずっとは難しいかもしれないけれど)。つまり「友達だから安くしろよ」と言うのは間違っていると思うけれど、「友達だからお金はいらないよ」と言うのは別に変なことではないと思っている、ということだ。

これは、あくまでも自分のスタンスとしては、の話だ。友人に対しては贈与の気持ちでできるだけ関わりたいと思っているし(「友人」じゃない人はそうではないけれど)、そういった関係性がたくさんある方が楽しいじゃない、と思っている。みんなはどういうふうに思っているんだろう。贈り合える関係性がたくさんある、ということは美しいことなんじゃなかろうか(これは立場や世代、環境によっていろんな考え方があるだろうから、また対話したいな)。

もうちょっと別の話をしたい。

「選択と集中」。自社のドメインを決めて、そこに資本や人員を投下し、事業をつくっていく。これは、ビジネスの基本のように思えるし、ドラッカーもその重要性については語っている。けれども、ぼくとしてはあまり釈然としていない。これはあくまでも「ビジネス」においてのみ有用性のある考え方なのではないか、とそう思ってしまうのだ(勉強不足であれば教えてください)。

自社のドメインを決めるということは、それ以外のことはやらないということである。そうやって部分合理的に事業やプロジェクトを進めていくことが分断を生み、さらには社会全体としての歪(ひず)みを生んでしまっているんじゃないだろうか。直感的にそう思う。もっと全体が有機的につながりながら価値を生み出していくような事業体、あるいは生態系をつくることができないだろうか。日々、そんなことを考えている。

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お客さんとか、経済とか、お金とか、ビジネスとか、システムとか、そういうことを考えてみると、「場づくり」ってなんだろう、ということが少しこれまでとは違って見えてくるような気がする。

それは、ぼくはこれまで「(新しい)家族(的つながり)」や「関係性」をテーマにしてきたけれども、本当はもっと大きなものに向かい合っているんじゃないだろうか、という感じのことで。まだ全然掴みきれていないのだけれど、それが資本主義(現代経済システム)へのチャレンジなのかもしれない、と。

そして、全国各地で「場づくり」や「コミュニティづくり(コミュニティデザイン/コミュニティマネジメント)」に取り組んでいる仲間や知り合いたちは、直感的に、あるいは意識的に、この問題に向き合っているんじゃないか、という気もしてきた。だからいま思い立ってこのブログを書いているというわけ。これがひとつ、連帯のきっかけになる気がして。

見えないところでぼくたち自身の身体や心を蝕んでいる今のシステムに対して、精一杯抗っている仲間が着実に全国に増えてきている。なんか、そういうことなのかもしれない。

これまでの話をまとめると、以下のようなものになる。

<藤本の周辺で起こっていたこと>
じいちゃんの楽器屋さんがつぶれた

借金苦で家族が解散した

藤本少年は傷ついた

自らの傷を回復するために「場(家族以外の関係性)」を求めた

他者と協力しながら場を広げていった

<社会で起こっていたこと>
大量生産・大量消費/核家族化が進む/専門分化が進む/あらゆるもののサービス化(お客様化と無力感を生む)/民営化 など

ここで重要なことは「じいちゃんの楽器屋さんがつぶれたのは、じいちゃんのせいだけなのだろうか?」という視点だ。藤本の周辺でと書いたが、きっとこれはひとつの家族の物語ではない。当時(バブル崩壊以降)、このようなケースが日本各地で起こっていたのではないだろうか。そして、その反動としてのアクションが、いまこの時代に実際の形となって立ち上がってきているのではないだろうか。

そう考えると、これは個人的な傷の話ではなくて、集団としての、この時代を生きている構成員としての傷の話になってくる。その視座で「場づくり」を捉えた時に、多様なプレイヤーとより深く連帯できることがあるんじゃないか、という気がしてきている。それは一般的な「場づくり」を超えて、経済システムに由来する傷つきからの回復と癒しとしての新たな活動やプロジェクト全般を指すように思う。

こういったことを踏まえつつ、自分たちの「場づくり」という営みがいまここに存在していると思い至った。もう少し思考を深めたい気がするけれど、続きはまたみなさんからもらった問いをベースに進めていきたい。

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藤本 遼|株式会社ここにある代表取締役|場を編む人
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