令和ロマンM-1連覇の必然
前説
2024年のクリスマス。M-1グランプリの余韻が抜け切らず、NON STYLE石田明さんの本『答え合わせ』を買った。これがとにかく勉強になる。
伝統的な漫才に対して脱構築的なアプローチを取りながら「漫才論」「M-1論」「芸人論」を展開する同書は、感覚的な笑いの言語化と分析を試みている。
お笑い鑑賞の新しい視座を得た私は、とにかくM-1の答え合わせがしたいという衝動に駆られた(出版元のマガジンハウスの策略にまんまと引っ掛かった)。そこで、石田理論を拝借しながら令和ロマンのM-1連覇についてあれこれと思索してみることにした。世の中は考察ブームだが、本稿はあくまでも批評(漫才を評価すること)を目的としたい。
以下、敬称略で失礼することをご承知おきいただきたい。
第1章:テレビが神格化した男、松本人志の不在
M-1グランプリ2024の特筆すべきは、長らく審査員を務めてきた松本人志の不在である。お笑い界の頂点に君臨し続けてきた「権威」に代わるように登場したのが島田紳助の直筆メッセージだった。
かつては「笑いの神」として持て囃された島田への崇拝とも取れる冒頭の演出。まるで松本不在で影を落としたM-1の再起をかけて権威付けするかのように。しかしこれが波紋を呼んだ。時代錯誤感が指摘されたのだ。
「昔なら許された」問題で芸能界を去った者を祀った制作サイドに対して向けられた世論の厳しい目。それはそうとも、2024年はテレビが権威付けてきたものに対し世論が「否」を突きつけた一年だった。松本の活動休止に限らない。兵庫県知事選報道、中居正広の9000万円報道、紅白歌合戦から消えた旧ジャニーズ…。テレビを支配してきた既存の権威に敵意が向くことも多かった。
テレビが神格化した存在の否定。島田が意図した「夢の入り口としてのM-1」が、前回王者の令和ロマンの連覇によって図らずとも否定されたことは、テレビ権威主義時代に終わりを告げるかのような出来事だった。
第2章:令和ロマンが「終わらせた」ものとは
(1)笑いの神は死んだ
「終わらせよう!」ーーーボケのくるまがトップバッターとして登場するや否や放った掴みの一言。自信たっぷりに現れて、緊迫した空気を一瞬でぶち破った。私にはニーチェ(ドイツの哲学者)の「神は死んだ」みたいに聞こえて仕方がなかった。
(くるま様は吉本興業のニーチェなのか・・・)
まず「神は死んだ」に触れておくと、善い/悪いの価値判断となる絶対的な視点(=キリスト信仰の絶対性)を否定した言葉だ。
お笑いの審判における、面白い/面白くないの価値判断基準は何か。それは松本人志の絶対性を拠り所にしていたようにも思える。というのも、松本が漫才・コント・大喜利・漫談とあらゆるジャンルの大会や番組を支配してきた立場だからだ。テレビがチェアマンとして松本を祀り上げ、多くの芸人の松本信仰を導いた。2015年のM-1で優勝したトレンディエンジェルの斎藤は、松本不在の大会で優勝したことについてコンプレックスを抱いたという。
松本の影響力の強さについて、オリエンタルラジオの中田敦彦は自身のYouTubeの中で次のように言及している。
M-1の審査に限っては松本票が大会結果を左右しているようには見えない(図表1を参照)ため、中田の指摘が正しいと言い切れない部分もある。だが、売れたい若手芸人にとっての松本が、キリスト教徒にとっての神と同じく批判しにくい対象であることは間違いない。面白い=松本が認めたものが面白い、とする風潮も否めない。
(図表1)M-1グランプリ歴代優勝者と最終決戦の松本人志票
ところが、令和ロマンは松本人志の存在・不在に関係なく優勝できることを証明し、面白さの価値判断となる絶対的な視点を否定した。笑いの神は死んだのだ。
(2)ばいきんまんがアンパンマンを倒す神回
「終わらせよう」宣言に話を戻す。「令和ロマンのオールナイトニッポン」(2025年1月2日放送回)によると、J.Y. Parkの「始めましょう」(オーディション番組・Nizi Projectを参照)に対抗したフレーズだということが分かった。
ネクストスターを発掘する場で夢の入り口の扉を開くJ.Y. Parkとは対照的に、扉を閉ざそうとした令和ロマン。ダークヒーローの降臨だ。ジョーカーではなくばいきんまんみたいな、高飛車だけど憎めない悪役。
くるまがばいきんまんなら、バッテリィズのエースはアンパンマン。制球力抜群の凄腕ピッチャーのバタコさん(寺家)を擁する最強のヒーロー。新しい顔が入れ替わらない2024年のM-1は、ばいきんまんがアンパンマンを倒す神回となった。
第3章:Mrs. GREEN APPLEとの共通点
Mrs. GREEN APPLE(以下、ミセス)は、令和ロマンと同じ年に連覇を成し遂げたという共通点を持つ。2023年の「ケセラセラ」に続き、「ライラック」で2024年の日本レコード大賞を受賞した。
レコ大の審査は日本作曲家協会が決めた基準に従って新聞協会加盟社の音楽担当記者を中心に行われているそうだ。一般観客の投票ではなくその道に詳しい玄人が選考する点ではM-1の審査に似ている。
そもそも楽曲とM-1は近しい存在だ。「尻上がりに盛り上がった理想的な構成」は賞賛される。4分間の起承転結の中でリズムやテンポのコントロール(技術力)も重要な要素だ。そして上手いだけではダメで、新しい要素(独創性)が評価される。
これを踏まえて、ミセスの「ライラック」と令和ロマンの決勝ネタ2本の共通点を挙げると以下の3つだ。
(1)イントロ=掴みの技術力
(2)あの頃にタイムスリップできる青春
(3)音域=笑域の広さ
以下、1つずつ言及していこう。
(1)イントロ=掴みの技術力
最近のヒット曲はイントロの短い曲が多い(図表2を参照)。音楽のサブスク化でストリーミング再生回数がヒットチャートを左右するからだ。世の中に溢れる楽曲を効率的に消費したいタイパ志向の消費者を考慮したコンテンツを時代が要請するようになった。YouTubeの切り抜きやTikTokなどのショート動画の台頭も、楽曲制作や漫才のネタ作りに少なからず影響を与えているのかもしれない。
(図表2-1)2024年のヒット曲とイントロの長さ
(図表2-2)2010年のヒット曲とイントロの長さ
では、サブスク全盛期にイントロが25秒と長い「ライラック」が評価された理由は何か。漫才のイントロ=掴みの重要性をヒントに、評価されるポイントを探ってみる。
ミセスも令和ロマンもお客さんを引きつける最初のチャンスを最大限に生かしている。時間をかけて異世界へ誘い込む東京的要素(長めのイントロ)と、スピード感重視の大阪的要素を混ぜ合わせた万人受けの関東・関西ミクスチャースタイルだ。
レコ大にノミネートするも大賞を受賞しなかったYOASOBIの『アイドル』、Creepy Nutsの『Bring-Bang-Bang-Born』はどちらもイントロがない関西スタイル。しかもかなり早口。
ヤーレンズのボケ数の多さとか、さや香の『見せ算』には、音数が多くて計算し尽くされたYOASOBI的なネタの面白さがあるけれどミクスチャースタイルには敵わなかったのだ。
(2)あの頃にタイムスリップできる青春
「全ての世代に届けることができるポテンシャルを持った青春ソングを書きたいと思い、書きました」ーーーミセスのボーカルとギターを務める大森元貴は「ライラック」制作の思いをこう語った。
古代中国の思想では、人生の四季を青春・朱夏・白秋・玄冬と呼ぶ。青春は20歳から40歳、朱夏は40歳から60歳を指す。青と朱が重なる紫のライラックは、年齢の重なりを色で表現しているのだろうか。
令和ロマンの決勝1本目のネタ「名字」は、小学校あるあるを盛り込んだ全世代に届くポテンシャルしかない青春漫才。2本目のネタ「タイムスリップ」は、3次元の現実(2人の会話)と2次元的な過去(くまざる劇)が重なり合う2.5次元漫才だ。くるまとケムリはいつでも現在と過去のあいだで踵を浮かせている。
青春ソング、失恋ソング、大河ドラマ、昭和レトロ、タイムスリップネタ…。過去を振り返るエンタメが需要されるのは、慣性の法則のように未来に進む反動で時間的バランスを取ろうとする感覚が人間に備わっているからかもしれない。
(3)音域=笑域の広さ
テレビの中のミセス大森が時折、ミッキーマウスに見えることがある。というか、ミセスの世界観がディズニーランドみたいに映る。ペンライトを使うライブ演出もあるらしく圧倒的キラキラ陽キャ感が眩しい。まるでエレクトリカルパレードだ。
彼らは「3人組ロックバンド」と称されることが多いが、反骨精神剥き出しのロックというよりはエンターテイナー。ディズニーみたいな「みんなが楽しめるもの」を作って、大衆の心を掴むことに試行錯誤している印象を受ける。
その大衆性(ポップスらしさ)を生み出す要素の一つが音域の広さだろう。音の幅は高域・中域・低域の3つに分けられ、バンド音楽は基本的に中域メインにサウンドが作られることが多い。R&Bやヒップホップは低域重視。そこに高域がうまく溶け込むことでポップスらしさが生まれる。
ミセス大森は音域の広さに定評のある。3.5オクターブ(一般男性の2倍)出せるらしい。「こんなん一般人じゃ気軽に歌えないやろ」みたいな曲も結構ある(ex.『僕のこと』、『Soranji』)。『ライラック』は比較的歌いやすい音域で展開し、ラスサビで転調することで音域の高さを出して尻上がりに盛り上がる曲だ。
お笑いにも音域があるとノンスタ石田が次のように述べていた。
大衆が見逃してしまう面白さが「笑域」の高さに繋がるのだろうか。
「渡辺凛太郎のビャンビャン麺方式」は人を選ぶ高度なボケだと思ったが、笑いのプロであるM-1審査員がもっと別のところで笑っているのかと思うと興味深い。
とにかくミセスも令和ロマンも大衆性を担保しながらプロにしか出せない領域に挑んでいる。
後説
(1)漫才か漫才じゃないとか
ノンスタ石田は、漫才は「偶然の立ち話」で、コントは「設定の中で役を演じ切る」ものだと定義している。
令和ロマンの1本目は漫才。2本目は江戸時代の設定の中で「2.5次元俳優」や「くまざる」が登場する漫才コント。漫才のNo.1を決める賞レースで、漫才2本で挑んだバッテリィズではなく漫才の枠組みを外れた令和ロマンが勝利。マヂカルラブリーが優勝した時みたいな「漫才か漫才じゃないか論争」には既に終止符が打たれているようだ。
漫才も多様性と複雑化の時代だ。ダイタクやジョックロックの「フリ→ボケ→ツッコミ」の反復で構成される漫才が「展開が読めてしまうもの」として評価されたのは、審査員たちが漫才の伝統からの脱却を求めているように見えた。
M-1歴代優勝者のバックグラウンドが多様化しているのも(図3を参照)、関西の伝統芸からの脱却に新鮮な面白味が見出されているからだろう。
(図表3)M-1グランプリ歴代優勝者と出身地
東西南北それぞれの良い部分が混ざることで複雑化し、漫才は進化している。
(2)芸人の高学歴化 vs 観客のお笑い偏差値
芸人のバックグラウンドの多様化について最近よく言われているのが、高学歴化だ。アメトーークの大学お笑いサークル芸人を見て、真空ジェシカ川北が慶應卒という事実を知り驚いた記憶がある。
最近の若手芸人を見て思うのが、ボケ=アホそう、ツッコミ=賢そうのステレオタイプを撹乱してくるコンビも多い。令和ロマン(慶應組)やラランド(上智組)は、ツッコミのケムリとニシダがいかにもボケそうな見た目をしているので初見だと混乱する。
バッテリィズのネタ講評で印象的だった審査員のコメントがある。
小難しい漫才vsアホ漫才。漫才が複雑化・戦略化してきた時代だからこそ、純粋でシンプルなアホさが際立つバッテリィズが時代に逆行する新しさとして好評を得た。
一方、芸人だけでなくお笑いを受け取る観客の漫才偏差値も上がっている。漫才を見る場がクローズドな劇場からテレビやラジオ、さらにはいつでもどこでも視聴できるYouTubeへと広がったことで、肥えた目を持つ観客が増えている。観客のレベル(お笑い偏差値)に合わせて芸人がアホ具合をチューニングする必要性が生まれているのだろうか。令和ロマンにはアホなだけでは終わらない、複雑なアホさがある。だから、耳の肥えた観客を満足させられる味わいの深さがあるのだろう。
以上、あれやこれやと論を展開してきたが、結論として言いたいことは一つだ。「偶然の立ち話」を原点とする漫才が多様化・複雑化する時代、令和ロマンのM-1連覇には必然性があった。
漫才/コント、ボケ/ツッコミ、反知性/知性、関西/関東、芸人/観客…。M-1ではその歴史とともに漫才おけるあらゆる二項対立が解体され、再構築されている。芸人たちが漫才の枠組みを壊そうと試みているからこそ、新しい「面白さ」が私たちを待っている。そんなお笑いの進化と更なる発展を願って本稿の終わりとしたい。