小説:ストロボライト
あなたが居れば良いはずだった。
それで世界が完璧になるはずだった。
私は今、どうして星空に手を伸ばしているのだろう。
私は私が私なことに耐えられない。
耐えられないから、星になりたい。
そうすれば、あなたがいつか空を見上げたときに、見つけてくれるかもしれないから。
キレイと言ってくれるかもしれないから。
高校三年生の夏は、思い出す限りほとんど曇っていた。
がっかりだよ。がっかりだ。
私の青春の最後の夏をどうして曇らせた。
こちとら女子高生やぞ。
背景は青い空と白い雲と決まっとるやろがい。
私は鉛色の空に向かって呪いを込めたヘアゴムを打ち上げた。
花壇の中に落ちたそのヘアゴムを拾いながら、私は昨夜の母の言葉を思い出していた。
「美術大学に進学しても、仕事は見つからないよ」と母は言った。
たしかにそうかもしれない。統計の数字を見れば。
だがその数字たちに人格はあるだろうか。表情はあるだろうか。
人間は数字じゃない。記号じゃない。
それぞれに葛藤があり、思想があり、野望がある。
学校では記号たちが並んで授業を受けているわけではない。
そう、私はイチかバチかで美術大学に行きたいんじゃない。
私は勝つ自信がある勝負しかしない。
そう思っていた。
大学に入ってもサークルには入らなかった。
サークルに入るなんて、大学が人生のモラトリアムだと思っている人間のする行動だという偏見があった。
キャンパスの中庭を通るたびに、勧誘の餌食になる新入生を見かけた。
私にとってはドラッグの売人のように見えた。
入ると楽しいよ。
最初のうちはタダでいいよ。
みんなやってるよ。
彼女できるよ。
私は虫酸が走った。
呪いのこもった目で中庭を睨んでいると、「バン!」という音と共に、私の視界のはじが異様に眩しくなった。
私はテロかと思って身構えたまま、その方向に目をやった。
そこに彼が居た。
彼は中庭の片隅にある像にカメラを向けていた。
私は無意識に歩いていき、話しかけてしまった。
「なにしてるんですか?」
「え?」と、彼は振り返った。
「写真?」と私は聞いてみた。
「マグネシウムとカリウムを燃やした光がいちばん速くて柔らかい」
と彼は脈絡もなく説明をした。
「その像が好きなんですか?」
「ぜんぜん好きじゃない。建物の中で写真撮ったら退学になりかけたから」
「爆発してましたもんね」
「君、だれ?警察?」と彼は聞いた。
私はめちゃくちゃ笑った。
彼は社会では生きづらいタイプではあったかもしれない。
それでも、私はどうしようもなく彼に惹かれた。
大学の構内で彼を見つけるのは大変だった。
スマホも持っていないし、その日はなにを撮りたい気分なのか予測することは不可能だった。
私は諦めずに彼を探し出し、見つけるたびに話しかけた。
ある日、彼は言った。
「星が好きなんだ」
「星って、天体とかの?」と、私は聞いた。
「星座とかはぜんぜんわからない」
「星を撮るの?」
「天体写真も無粋だと思ってる」
「無粋?」
「星の光はガスが燃えた光なんだ」
私は話の続きを待った。
「いちばん速いはずの光が、数百年かかってやっと僕に届いてる。僕はそれが悲しくてしかたない」
「悲しいんだ」
「何かを伝えようとした光。手遅れになってから受け取る僕」
私は無言で頷いた。
「星の光は、世界でいちばん美しくて、世界でいちばん悲しい光だと思う」
そう言ってから、彼は私のほうを見た。目を合わせるのは初めてだった。
「目に映るものは、光が物質に反射して届いた光なんだ。目の前にいる君も、ほんの少しだけ過去の君なんだ」
彼は泣きそうな目で、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「手をつないでもいいかな」と、彼は言った。
私が右手を差し出すと、彼は私の指の先をそっと握った。
「これで限りなく君と僕の時間差が無くなった」
そうして私と彼の時間差は無くなった。
私は、私の世界が完璧になる予感がした。
ある日、彼がとある雑誌の表紙に写っているのを見かけた。
雑誌を手に取りぱらぱらめくってみると、彼は相変わらずわけの分からないことを言っていた。
それが嬉しくて、私は微笑んだ。
私は彼の言っていたことを、ほんの一瞬だけ理解したことがある。
でもそれは、あまりに一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、彼のストロボライトに私の心が照らされただけなのかもしれない。
「あなたは彼に飲み込まれる。あなたは喜んで身を滅ぼそうとするわよ」と、母は言った。
「娘に生きていてほしいと願う気持ちが、あなたにもいつかわかる」
その夜、久しぶりにベランダに出て星を見た。
私は星空に手を伸ばした。
せめて星になれたら、と思った。
彼が見上げる星になれたらいいのに。
私はただの記号になる道を選んだのかな。
私は最初から勝負なんてしていなかったのかな。
私はずっと少しだけ過去の私のまま生きていくのかな。
私はこの先もずっと、はじめて出会ったあの日からずっと、彼のストロボライトに目が眩んだまま生きていくのかもしれない。
それが私の幸せなのかもしれない。