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希望

pandra's box


『終わり』は音を立ててやってきた。

2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震発生。
それはまるで唐突に、何の前触れもなく訪れて、そしてあまりにも無慈悲に、多くの人々の夢と命と未来を奪っていった。地震と、津波と、火。災害と呼ぶにはあまりにも大き過ぎる規模の被害は俺たちの想像を遥かに超え、2万人を越える死者・行方不明者という喪失と、「原子力発電所事故」という人災を残していった。

世界が支援を表明し、危機的な局面を打開するために多くのひとが死力を尽くすなか、原発は今日も日を追うごとにその絶望的な側面を見せつける。そんなとき俺たちにできるのは「祈り」だけなのか?

「祈り」とは自らが無力であるということを認め、何かした気になることを戒め、何もせず不安になることと戦うことなのだという。絶望を目の前にしたときに、自らの外に力を求めて、人は祈ってしまうのだろう。
だが、祈りや願いとは無関係に、現実は始まる。
映画のように世界を救うのは、使命を帯びた英雄でも、神託を受けた救世主でもないのだ。その絶望の果てに光を見つけるのは、『終わり』を『はじまり』に変えるためだけにただただ行動を続ける、「ひとびと」に他ならないのだと信じたい。

祈れば手が塞がるし、悩めば歩みが止まる。けれど、行き先さえ定まれば前に進むことができるはずだ。

いまこの瞬間、それぞれの人がそれぞれの持ち場で、やれる最善最大限のことを尽くそう。その行動のことを、災厄の箱の底に残ったものを、『希望』と呼ぶのではないだろうか。

***

「私はかつて“この国には唯一、希望だけがない”と書いた。いまは逆だ。食料も水も医薬品も足りない。燃料も不足。政府も仕事が追いつかない。だが、いまの日本人が唯一持っているもの、それは希望だ」
(2011.3/16 村上龍 NYタイムズへの寄稿より抜粋)

【地域情報誌フジマニvol.57(2011年5月)掲載の編集長コラムからの転載です】

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