患者たちの恋人
「貴方は病気なんです。きっと僕が良くしてあげる」
――人は、内側から支配する方が楽に手に入る。
外界と断絶された、精神病棟。
タフィは、淡い恋心を抱くルビにせがまれ、スノードロップを摘む途中、彼が助けを求める声を幻覚し、確信を強めながら、彼と落ち合うべく院内を駆ける。
精神を揺さぶられつつ、辿り着いた約束の屋上。そこでタフィが目にしたのは、想像を絶する光景だった。
R-18、R-18Gの読み切り小説です。
BL要素を含むゴシックなスリラーです。
ネット小説にしては文学寄りの文体だと思います。
古い精神病棟(閉鎖病棟)が舞台で、暴力的、差別的表現を含みます。
テーマは『支配の形』かもです。
ハルニレの枯れ葉を引きずって、北風が、隙間風様の低い唸りを上げている。
「……僕は医者だから。貴方のことも、皆さんのことも、助けたいと思ってる」
悲嘆するように吹き荒ぶ風。青年は悲壮感を滲ませながら、眉根を寄せて、目を伏せた。「――ごめんなさい」
風は一層、非難がましく吠え立てて、びりびりと大気を震わせる。薄手のシャツに包まれた腕を青年はさすりさすり、一心に耐え忍ぶ。耐え忍んで、ある時、ふつっと、嘘みたいに風が止んだので、恐る恐る面を上げた。にじり寄ってきた影法師にすっかり覆い隠される。
「やめて。怒鳴らないで、」
恐怖に顔を引き攣らせて、自分の両耳を塞ごうとしたが叶わない。歯を食い縛る間もなく頬を張られて、青年は尚、哀願する。「やめて、お願い、」
タフィさん――
雲を吸い込んだように胸の内が冷えて、タフィは手を止めた。
遠く、木霊を錯覚したのかと思い、やおら耳を澄ませてみる。
……私を置いていかないで。私を裏切らないで。……
木枯らしに紛れて聞こえてくるのは、決まってこの時間帯に歌われる〈ある朝早く〉。混じり気のない透き通った歌唱。
どんな助けを乞う声も聞こえはしない。にも関わらず、何処からか呼ばれている。手招かれているというのに、まるで目覚めた傍から忘れ去ってしまう夢のように、それは指の間から脆く崩れ落ちて、彼を現実に押し戻そうとする。
砂粒を寄せ集めるみたいに、必死に、タフィは幻覚の出処を手繰る。
ある可能性に行き着いて、ぞっ、と肌が粟立った。
(せんせぇ?)
キャハハハハ――
三一七号室の女性患者らが背後で笑う。
日向に守られた日常の中、ただタフィばかりが秩序から弾き出されて、影の住人に成り下がる。不穏に塞いだ彼の世界を、ミズヘビ状の予感が漂う。
あの日、
せんせぇが花を欲しがった日……、
記憶を思い起こそうとして、手元を見下ろした。
親指ほどのスノードロップの束は、〈医師の真似事をする患者〉のために、三一七号室の窓に引っ掛けられたプランターから摘み取ったものだ。青みがかった雪の色の花弁。雪から、白という清らかな色を貰い受けた花。
ルビに相応しい透明さは、けれどもタフィを一層心細くした。どうして花など欲しがったのか。常とは異なる願いの訳を、正気と狂気との狭間を行き来する薬漬けの頭は、思い出すことができない。
「タフィ、終わったぁ?」
女性患者の声繕いに、ぞわりとしてその方を見る。
彼女の後ろから、枝を束ねて作った案山子みたいに痩せぎすの少女が、ちらちらと此方を気にしてはにかんでいる。ハコベの花冠を頭に載せて、素肌にはイブニング・ドレスを真似たカーテンを巻き付けている。
肩先を硬く尖らせ、鎖骨まわりを浮き彫りにしている、骨にぴたりと張り付いた薄っぺらな皮膚が、そして、点滴の跡であろう、腕にいくつも拡がった大きな紫斑が、タフィの喉元に、忍び寄る死の悍ましさを突き付ける。少女は手にハコベのブーケを持っていた。
「ねえ、見てあげて。あんたのために、この子――」
「いやだ。来るな、」
窓を離れて跳びすさったタフィに、少女の顔から笑みが消える。「タフィ?」
「ゾンビめ。死が感染る、」
「何てこと言うの、」
「何てこと?」タフィは部屋中の患者たちを見回して、彼女たちが悪びれる様子一つ見せずに呆気にとられていることに寒気を覚えた。
「結婚式を挙げましょう」
弾かれたように病室を後にする。
間を置いて上がった哀哭に、自分を罵倒する声が重なったが、どれもこれも、気に留める必要のない狂言だった。タフィはルビを恋しく思う。一刻も早く、彼の抱擁に包まれたい。でも、もし、〈大丈夫〉という言葉を、実感を、切望して止まないのがルビの方だとしたら……。
廊下を、鈍い薄日が照らしている。灰色に翳った階段に差し掛かると、下から上ってきた患者たちとすれ違う。
調子外れに叫ばれる〈五匹の仔ザル〉、その二番。
「四匹の仔ザル
ベッドでジャンプ
一匹落ちて
頭をぶつける
ママがドクターを呼んで
ドクターは言った
仔ザルをもう
ベッドでジャンプさせないで」
彼らの手と手は結ばれて、楽しげに揺すられている。段差に躓く者があっても決して解けないで、また立ち上がり、歩き出すのを辛抱強く待っている。
羨望で胸が一杯になるのをタフィは感じとめる。それはほんの昨日まで、散々ルビと分かち合い、享受してきた日々、或いは思い出の花畑だった。
(明日は西棟の屋上で会おうって、せんせぇ、言ってた。
ずっと中庭で落ち合ってきたのに。中庭ならもう、直ぐそこなのに)
ささくれ立つ胸に手を当てて、タフィは先を急ぐ。
扉を開けて渡り廊下に出ると、〈ある朝早く〉の歌声がいっぺんに空間に溢れて、そこらじゅうを水色の哀しみ一色に湿す。
……私は庭で摘まれて、貴方の額を飾るの。……
歌詞が初めて鼓膜から染み出し、心臓を経て腹の底に溜まると、こみ上げてくる吐き気にタフィは首を振った。
違う。
そんなことない。
せんせぇは何にもない。無事でいる。
「貴方は病気なんです。きっと僕が良くしてあげる」
はっとして、右に広がる中庭を見た。ルビの影はない。
呆然と立ち尽くす間もなく、ガシャン、ガシャン、ガシャン、とフェンスを無暗に揺さぶる音にタフィは左手を振り返る。
ルビと二人きり、中庭で過ごすことが殆どの彼にとって、それは初めて見るもの——いいや、目を背けて久しい光景であった。
幾人もの男性患者が、樹上のチンパンジーみたようにフェンスからぶら下がって、金網の向こう、教会の庭で歌うシスターへと卑猥な罵言を投げつけている。
〈外〉では決して聞かれないほどに下品な言葉の群れはしかし、知性を伴わないためにのっぺりとして、決まりが悪く、痛ましい。
何も聴こえない。
何も見ていない。
そう何度も言い聞かせているのに、タフィの視線はシスターに釘付けになる。彼女もまた、歩き去っていくタフィを目だけで追い掛けてくる。ふと妖艶に笑みを作ると、呆気にとられたタフィに、唇だけで囁きかけた。
『今晩、どう?』
どろり、とした蓖麻子油状の泡が、タフィの胸中に湧き起こる。
水面まで浮上して、こぽん、と弾けた拍子に、ようやく呼吸することを思い出して、同じなのだ、と結論する。
あのサルどもも、自分も、彼女には少しも変わらない。
閉鎖病棟に囲われて、緩やかに萎びていく定めの、愚鈍で、汚らわしい、下等な生き物。
できもしないことを約束して、取り上げてしまう。泣き喚く弱者を横目に愉悦するためだけの、素朴で原始的な玩具に過ぎない。
『僕は要らないヒト?』
いつか、ルビに問いかけた。青痣とミミズ腫れの絶えない背中に、冷や水を絞ったタオルを当ててくれながら、ルビは否定した。『必要な人ですよ』
『誰が必要としてくれるの』
『僕が、必要としています』
『何にも役に立たない』
涙ぐんだタフィを、ルビは傷に障らないよう、柔らかく抱きしめてやった。『居てくれるだけで良いんです。最愛の人だから』
「嘘吐き、」
目が合ったままで虚を衝かれて、シスターは狼狽する。「その気もない癖に。誰でも良い癖に、」
「あたし、違うわ」
「天使の姿をした悪魔だ、」
と、その時、洗濯紐から落ちかけたシーツが一枚、シスターの後方から突風に攫われて飛んでいくと、丁度、西棟の屋上を掠めて、あっという間に見えなくなった。
雲はぐんぐん一方向へと進み、日差しを晒したかと思うと、もう覆い隠して辺りは暗い。
「……せんせぇ」
シスターを忘却したタフィは、屋上に視線を注ぎつつ、再び歩き始めた。
燃え盛るようだった憎悪から置き去りにされ、抜け殻と化した後ろ姿。半死人だ、とシスターは思う。浮きつ沈みつする自己意識。途切れ途切れの記憶の中で遭難し、現在と過去との波間で、今にも溺れかけている——。
タフィは渡り廊下を渡りきって、西棟への扉を開ける。
ヒーヒーと、さもしい笑いが階段を満たしていた。人が人を容赦なく蹴りつける痛ましい音も。
そうして、吐瀉物の臭い。思わず呼吸を止めて、タフィは正気付いた。
徐々に見えてくる、地べたに倒れて蹲っている患者。
彼が庇おうとする腹部を、その腕ごと蹴って嘲笑う、大柄な二人組。
……虐めているのは、自分と同じ病室の連中だ。
身の毛がよだつ。
一緒にいるところをもし見つかったら、鞭で打たれる。服を剥がれて、一晩中、屋外に座り込まされるかもしれない。コンクリートブロックを腿に積まれて。凍傷はいい。失禁したら付け込まれて、殊更に〈レクリエーション〉は長引く。
せんせぇだけだ。
せんせぇ、ただ一人が、巻き込まれることのない安全な所にいる。
哀しそうに、虐げられる僕たちを見下ろしている。
……せんせぇだけが?
あそこでああして、せんせぇの肩を抱いている〈あいつ〉は?
いつも打たれずに済んでいるあいつは――
「また五〇五号室か、」
恰幅のいい職員が血走った目をして、鞭を片手に、のしのしと階段を下りてくる。タフィの真横で、
「やめろ、やめろって言うんだよ、」と、がなったが、肩をびくつかせた彼には目もくれないで、渦中の三人の間へと割って入っていった。
彼らから遠ざかるにつれて、タフィの肺から細く息が漏れだしていく。
何とか握り潰さないで済んだスノードロップを両手で胸に寄せ、目尻に滲んだ涙を拭う。
一人の患者が、階段上から、こちらを凝視している。
告げ口した者なのだろう。にたにたとタフィを見詰めて憚らない。前を通り過ぎてもまだ、見上げられている気がする……。
とーん、 とん、とん、とん、
最後の踊り場で、ぎこちなくボールをつく患者とすれ違う。
タフィは心を落ち着かせるために、ボールのリズムに合わせて頷いた。
いつもは施錠されていると云うドアの前に辿り着く。ノブを回すと、重たくはあったが、すんなりとドアは開いた。
強烈な風が吹き荒れている。
眼の乾きを覚えながら、タフィは外付け階段の果てを見上げて、ここだ、と確信する。あの助けを乞う声は、酷い風の奥からしたように、搔き消されるように聞こえた。
ドアをそっと後ろ手に閉ざして、額に滲んだ脂汗を拭う。……怖い。せんせぇが、いつだって無事でいる筈のせんせぇが、僕を手招いている。幻ならどんなに良いか。けれども、今日は中庭ではない。屋上で落ち合うことを、僕たちは選んだ。
『お前もルビと がしたいんだろう?』
タフィは手すりに全体重を預ける。
どっと押し寄せてきた眩暈が去るのを待ってから、階段を一段一段、確かめるようにして踏んで上った。
汗で湿った体と衣服との間を寒風が吹き抜けていく。堪える寒さだったが、それは、タフィの孤独に更なる霜を纏わりつかせて、今にも凍死する、その前に、熱を求めるよう焚きつける追い風でもあった。
『結婚式を挙げましょう』
『今晩、どう?』
『やめろ、やめろって言うんだよ、』
(僕には、せんせぇしかいないのに)
階段を上りきったところで、嘘みたいに風が途絶える。
代わりに鼓膜を震わせたのは、ボールをつくような、それにしては妙に湿っぽい、聞いたことのない音だった。タフィは耳をそばだてる。足元がすっきりしているのを確認して、冷却塔の群れまで歩み寄り、手を添えた。大きな身体を隠すようにして、ぐるりを見回す。
二人の男がまぐわっているのを見つけて、口を掌で塞いだ。
ぱち、ぱち、ぱち、と一定の間隔で、臀部と腰とをぶつけ合っている。
下半身だけを露出した男に、身なりを散々乱された男が、後背位で犯されている。
犯されている方の男が、背をしならせて顔を起こした。
男性にしては長く、豊かな髪が、彼の顔の脇へ流れて、その顔立ちが露になる。
タフィには判っていた。ルビだ。
……見てはいけないのに。彼から目が離せない。
まっさらだと信じて疑ったことのなかった肢体は、男に突かれるたび、弾みをつけて揺れている。
やはり傷一つない滑らかな背中には、光を反射する液の跡が、既にこびり付いている。
タフィは恐怖にも似た嫌悪を感じて、それでも、痛いほどに兆して膨らんだ自身の局部に恥じ入った。
『一丁前におっ立ててるぜ』
過去から響き渡る哄笑。口を真一文字に結んで、タフィは心新たにルビを見詰める。どうして?(どうして、って、何?) だって。だって、せんせぇは、僕を――
「痛い……っ」
前へと倒れ込んだルビに、後ろから犯していた男が舌打ちする。
彼の陰茎は血と糞とに塗れて、赤茶色に染まっている。「きたねえ」
まさか。
肌を粟立たせながら、タフィは目を凝らす。
ルビの髪を乱暴に掴み、引っ張り上げてその頬を張ったのは、タフィと同じ五〇五号室の患者の中でも、分けて腕力の強い男だ。
それに、いつもルビの傍にいて、一緒に〈罰〉を免れている。
「口でしてくれよ、先生」
ルビは血反吐しながらも何とか起き上がり、仁王立ちする男の前で膝をついた。逡巡した後に、一思いにそれを口にしたものの、うぇ、と直ぐさま吐き出してしまい、再び髪を掴まれる。
陰茎に頬を撫ぜられて、ず、と洟を啜るのが分かった。
「タフィさん……」
聞き間違いなんかじゃない。
「違うだろうが、」
男はけだもののように歯を剥いて、ルビの頭を殴りつけた。地面に転がったところを跨いで、見るからに作りの脆い首を締めにかかる。
「何度も言わせやがって。何度も、何度も……。甘やかし過ぎたか? 馬鹿は死なねえと治らねえんだろうなあ、先生、」
タフィは配管の合間を縫って回り込むと、姿勢を低くして、死角から男に突っ込んだ。
追い風が味方した。
隅の鉄柵に向かって男は大きくふらついて、そこを更に押し出され、憎々しげに吠えて掛かる。「タフィ、」
男による反撃は叶わない。脱いで捨てていた自らのズボンに足をとられて、もたついた。タフィがもう一度体当たりをして、男を鉄柵に追い詰め、打ち当てる。勝算などないのに――そう冷や汗を流したタフィは、しかし、次に起きた現象に目を疑った。
鉄柵の左半分が脱落して、視界から消える。支えを失くした男は重心を取り戻そうと、宙を掻く。
残った右半分に手を掛けようとしているが、決して体重を預けるべきではない。その根本も錆び付いていて、仮に、軽く握っただけでも、ぱらぱらと砕けてしまうに違いない――
「タフィさん、」
ルビの叫ぶ声が、電流みたようにタフィの体内を駆け巡る。視界が異様に冴え渡り、理性という陽も遮られると、急速に冷え込んでいく自己に絡みとられて、万能感に満たされた。
欲念の宿る瞳で、男に忍び寄る。
伸ばされた彼の手をはたき落として、もう半分の鉄柵を、男諸共、素気なく蹴りつけた。
男が眼前から、スローモーションで落ちていく。
程なくして、シャアアアン、という金属の響きの中に、土嚢を振り下ろしたような、重く、乾いた音を聞き取った。
漣状に、驚きが打ち寄せてくる。
タフィは小刻みに震えながら、恐々と地面に手をついて、地階を覗いた。
下半身を剥き出しにした人型が、弓なりに反って、ピクリとも動かない。
雨。雨が降っている。
滴り落ちた汗の雫が、雨に紛れて行方を晦ます。
地上に。
僕も落ちてしまいたい。
落ちて、この地獄から逃げ延びたい。
もう沢山だ。
痛みも、哀しみも、慰み物にされるのも、
「早まってはだめ」
縋るようにタフィが見上げた先には、すっかり衣服を身につけて自分を取り戻した様子のルビが立っている。
タフィの肩先に触れて、ビクリとした彼を抱き寄せた。その温かさに、彼の嗚咽が収まっていくのを見て取ると、
「こっち」と手をとり、駆け出した。
タフィは、ルビをぼんやりと見詰める。
普段と違って、結ばれていない髪。あのようなことを経験しても尚変わらない、すっと伸びた細い背筋。
変わらない。せんせぇは何も変わっていない。
でも、僕は?
永久に変わってしまったことから、何処まで往っても逃れられない僕は――
冷たい風に逆らって、二人はもと来た道を引き返す。
院内に続くドアを開け放して、踊り場を通り過ぎる。置き去りにされたボールが、二人の勢いに押されて微かに揺れ動いた。
告げ口男のいない階段を駆け下りる。
散々袋叩きに遭っていた患者と、五〇五号室の二人組とが、半裸に剥かれて泣き叫んでいる。
鞭を振るう職員は、被害者と加害者とを区別しない。心の赴くままに両者を虐めて笑っていた。
ルビとタフィは渡り廊下に飛び出して、小糠雨に横っ面を湿される。
雨雲は速い足取りで、先にタフィを誘惑したシスターと、その先輩と思しきシスター、そのベールを、今にも吹き飛ばさんとしている。
ごうごうと云う風にも関わらず、先輩のシスターが一方的にどやしつけているのが分かる。
「不潔な唄ばっかり歌って。雨も分からないほど能なしなのね、貴方は、」
その後方では数人のシスターが、赤の他人を装い、シーツを引っ込めるだけのことに矢鱈と張り切っている。
二人は東棟へと逃げ込む。
横切っていく階段の壁には、〈仔ザルたちをきちんとベッドに寝かせましょう〉と、新しい落書きが加わっている。人気の途絶えた廊下に出た。
二人分の跫音と、浅く弾んだ呼吸とが、暗がりに冴え冴えと行き渡る。
角に差し掛かり、前を行くルビが足を緩めたので、タフィも走るのを止めて、咳き込みながら息を吸った。ルビの後に続いて、共用のランドリールームへと入っていく。
室内干しになった白衣と病衣、そしてシーツの中を、蜘蛛の巣を暴くようにして進む。
手狭で、同じ空気の滞っている、しっとりとした仄暗さ。日暮れ前、雨模様の、鬱屈とした青い陰影。
二人は足を止める。教会の鐘が鳴っていた。
礼拝の時刻にはまだ早い。死者のあったことを告げているのだ。
まるで、当て付けのように。
タフィの罪を照らし出して、刻印するかのように、厳粛に。
「……こんなこと、したかった訳じゃない」
ルビが顧みる。
感情の起伏に欠けることで、取り分け手の掛かるはずの患者が、今では忙しなく鼻汁を啜って、まるで恐ろしいものと対峙しているかのように、開いた両の手を戦慄かせている。
愛しい患者が、泣いている。
「嬉しい」
そう囁いたルビを、やおらタフィは見返した。揺れてしまって止まない左手を恭しくとってきて、何をするのかと思えば、ルビは、殆ど握り潰されたスノードロップの残骸に触れながら、天使みたいに目を細めるのだ。
「本当に、見つけてきてくれたんですね」
クロウタドリたちの囀り。
花芽をつけたヒイラギを穏やかに撫ぜる、冬日和のあたたかなそよ風。
薄ら日が柔らかな揺り籠みたように、白昼の中庭を蔽っていた。
「きっと僕は、貴方を残して死ぬことになる」
並んで座っていたルビが言った。
今にもゼンマイの止まりそうなオルゴールだとタフィは思う。目をしばたたかせて聞き返す。「何処か悪いの、せんせぇ」
それは確かに、壊れかけのからくりだったのだろう。
ゆるりとタフィを見遣ったルビの動きは、なめらかではなく、震えていた。
二人は見つめ合う。
共に生傷だらけの顔をしていたが、つう、と鼻血を一筋垂らしたルビの方が、誰が見ても、暴力との馴れ合いに草臥れて死にかけていた。
くまのある目元で、力なく笑みを作る。
「明日、西の屋上に、お見舞いに来てくれる……?」
「いいよ。何を持ってきてほしい?」
思惟に、ルビは俯いた。血色のない白い唇が、何処までも体温の感じられない言葉を紡ぐ。
二人ぼっちの小世界も、雲の影へと落ち込んでいく。
「花を。何者にも侵しがたい、純白の花を。けがれのない、白衣のような一輪を」……
分厚い雨雲の奥で、雷がくすぶっている。
ルビはタフィの胸元に額を当てて、囁いた。
「ずっと……一緒になりたかった。でも許されなくて、ずっと、我慢するしかなかった」
怯えを孕んだ眼でタフィを仰ぐ。「薄汚くても。僕を、許してくれますか?」
タフィさん――
ルビの口にした名が、タフィの頭一杯に、何重にもなって響む。
(僕が……、許す?)
思考はまるで、空襲に遭った街のようにバラバラだった。ただ茫然自失として、潤んだ瞳で見上げてくるルビを見返している。
今にも溢れて落ちそうな涙。
ずっと、我慢していたから? 僕と一緒になることを許されなかったから、せんせぇは、あんな――
「汚くない」
ぼろり、と、ルビの頬を涙が伝う。「せんせぇは綺麗だよ。どんなになっても、綺麗だよ」
「タフィさん、」
感極まった様子で、ルビはタフィに縋りつく。装着していたマスクを取り除けて、二人は初めてキスを交わした。何度も。求め合い、求められるだけ、何度でも。
床に散ったスノードロップを、興奮したステップが踏み躙る。
感動に打たれ、痺れたタフィは、高揚感の奴隷となって、ルビの服に手を掛けたものの、引き剝くことはしなかった。ルビを従順に見詰める。
「いいよ。好きにして」
タフィはまどろっこしく感じながら、慎重にシャツのボタンを外していった。
そうして、ようやく知り得たルビの素肌は、細い血管まで所々透けていて、吸血鬼みたように白々としている。そこを、野犬そっくりの忙しない舌づかいで、首筋から鎖骨へ、鎖骨から乳首へと、タフィは下りていく。
乳首を執拗に舐めてしゃぶると、ルビは蕩けた声を上げて身悶える。脱力しつつある彼をタフィが背中から支えて、床に、仰向けに横たえた。
息も絶え絶えになったルビに、不意に、甘ったるく股座を押された。「勃ってる」
「ん、」
「やってあげる」
「やる……?」
答える代わりにキスをすると、ルビは起き上がってタフィの股の間に座った。「自分で脱げる?」
ズボンのことなのだろう。その通りにしたタフィを見て、ルビは笑みを深めた。「パンツも。全部」
タフィは言われるがまま、すっかり下半身を丸出しにして、膝を立て、左右に脚を開かされる。体罰では感じたことのない種類の羞恥に、胸が高鳴った。ルビ相手にも、このような情けない格好を晒したことは一度もない。小便の介助だって――と思う内に、股座に屈み込んだルビの口内に、自身の陰茎が吸い込まれていく。
「せん、せ……」
上下に、扱くように舐めた後、眼だけでルビが微笑んだ。気持ちいいでしょう?
タフィは懸命に声を堪える。ルビみたいに喘ぐものではないと思われた。それでも、鼻を抜けて出ていく声までは止められず、それがルビを愉しませてすらいることに気が付いた。
息を整えるために身体を起こした彼もまた、ズボンの前立てを膨らませている。
「せんせ、僕も、したい」
「……だけど」
ふっと昏い顔をしたルビに有無を言わせないで、タフィは彼を押し倒した。
観念して、ルビも自身のズボンとパンツを取り払う。
足の付け根の奥まった処から、経血のようなものが静かに流れ出てくる。目を伏せたルビに、
「痛い?」とタフィは訊ねた。
「ううん。もう」
「じゃあ、何が嫌なの?」
「……あの人のでいっぱいだから」
「それじゃあ」
血と精液とで濡れたルビの秘所に指で触れながら、タフィは言った。
「僕、掻き出したらいい?」
「……指は、いや」
と言って、ルビが見越したタフィの陰茎は、口淫していた時よりも上向き、怒張している。ルビの大きく開かれた脚の間に迎え入れられて、タフィは生唾を呑む。(せんせぇ、せんせぇが僕のものだ、)
正常位で挿入する。
温かく、心地よい締め付けを齎す、女陰のような菊座に、タフィは早くも酔い痴れる。ルビにしがみ付かれつつ、最奥から入口付近まで大様に動いて、体内に残っていた精液を外へ溢れさせた。
「あ……っ、あ、タフィさ、もっと。もっと、いっぱい……ぁ、あっ」
ガツガツと奥を抉るように突き続けると、ルビは堪らないと云う風に嬌声を上げて、仰け反った。「あ、い、っちゃう、いっちゃう、ん、」
ぎちぎちに締め上げてきて、タフィにも促してくる。それでも止まらずに穿っていると、「あっ、やだ、またきちゃう、」とルビはまた果てた。今度は、タフィも射精した。
ルビの汗の匂いを聞きながら、自身の精液を、彼の深くに塗り込める。
落雷が地響きとなって窓硝子を震わせ、大粒の雨を打ちつけはじめた。
「……僕がせんせぇの傘になってあげる。せんせぇを守るよ。だから、ねえ、いつか僕と――」
夢見る声音で囁いてから、何処か放心したように窓外を眺めやるルビに、タフィは子供じみたキスをした。「好き……、せんせぇ……、大好き……」
そう譫言みたいに呟くと、ルビの下腹部に覆い被さり、拙い舌遣いで以てその陰茎を舐めだした。
「……ふふ。タフィさん、手も使って。付け根の、丸くなってるところをさするの……そう。んん……はあ」
タフィに教え、身を委ねながら、ルビは、上から逆さまに吊るされた白衣を見て、薄ら笑いを浮かべていた。
それは、遥か昔に取り上げられた、彼自身が身に纏っていたもの。
もうとっくに乾ききり、皺だらけで干からびた、永遠に、逆さまにされたきりの白衣である。
「タフィさん、……僕が教えてあげる。皆、皆、教えてあげる。貴方は、良い子にして聞けば良いの。皆、いつも通りだから。ね。先生の言うこと、聞けるでしょう……?」
*
夏の屋上。
立ち枯れして、殆どの葉を落としたハルニレが、陽炎に揺らめいている。
「……僕は医者だから。貴方のことも、皆さんのことも、助けたいと思ってる」
茹だる暑さの只中であるにも関わらず、ルビのその声は、水の飛沫一つ上げないで泳ぎ去っていく、体温のない魚そのものであった。タフィは信じられない気持ちで彼を見返した。
コンクリートは白色で照り返しが強く、ただでさえ蒼白いルビの顔を殊更に薄弱に浮かび上がらせる。彼の汗は玉となって、無風の中をぽたぽたと落ちた。
「ここを出る気はないってこと?」
やっと聞き返したタフィから、ルビは気弱に目を逸らす。「――ごめんなさい」
「はじめから?」
何でもない風を装い、タフィは額を袖口で拭う。袖の陰から横目で、ルビを盗み見して、案の定、怒りが蟠る。というのも、タフィには、俯いて見えないでいるルビの表情が、分かる気がしてならないのだ。
彼はタフィを恐れながら、絶対におもねることはしない。そうして真実、たっぷりと沈黙した甲斐もなしに、弱々しく首肯した。
タフィは舌打ちして掴みかかる。
「君を何度、職員から庇ったと思う、」
「やめて。怒鳴らないで、」
「人を殺したんだ。それなのに、まだ僕と他の連中がおんなじだって言うのか、」
「やめて、お願い、」
「売女め」
強かに殴り付けたルビの頬は固く、タフィを益々不愉快にした。
こうなってしまったら最後、ルビは梃子でも動かない。……或いは、生涯治らない傷を負わせてやろうか? 僕の介抱なしには生きられない体にしてやろうか?――
よろめいたルビの足が、虫に食われ、葉脈ばかりになった枯れ葉を粉々に踏み抜いて、沈黙を破る。
ルビは動かない。
顔を俯けたまま、血液混じりの唾液を垂らして、亡霊みたいに立っている。
タフィは疑念にも似た違和感を抱いて、眉を顰めた。ゆうらりと、ルビが顔を上げた。
口から血を流しているのが嘘のように、痛みも恐怖もない顔つきと、虚のように真っ黒な両眼とで、こちらを推し量っている。
まるで、茶番を演じる必要がなくなり、見切りをつけたように、無言で静止している。
(〈これ〉を……僕は、知っている)
思い至ったと同時に薄ら寒くなったタフィは、そっと後ずさり、踏んで崩した枯れ葉に肝を潰す。
被食動物のように、その場を後にした。
体中が叫んでいる。逃げ切れないと、叫んでいる。
そうであっても、走らないではいられない。
日常へ。
そう、嘗ての日常へと引き返すために。
淡く気怠い夏の日に溶け込みたい一心で、息を整えてから、五〇五号室のドアを開く。
爽やかな影の色合いに、ほっと胸を撫で下ろした。脈がなだらかに落ち着いていく。
五台並んだベッドの内、一番窓に近いベッドで、患者が一人、突っ伏している。半裸で、鞭で打たれた背中を曝け出している。
……この部屋も寂しくなったものだ。
一人はタフィが転落死させて、もう一人も……やはり高所から転落して死んだと噂されている。加えて近頃は、そこで伸びている男と頻繁につるんでいた患者さえ、殆ど姿を見せない。新しい玩具でも見つけたのだろうか?
タッセルで留められていないカーテンが、そよ風できらきらと揺れている。
ふと、先日開花したはずの向日葵が外に見えないことに気が付き、タフィは窓辺へと歩み寄った。
葉と茎とをプランターに残して、花首だけが綺麗に刈り取られている。軒下で徒長した花なんかを、誰が――。
とうに他人事になってしまった悲鳴と泣き声とが耳について、拡がる中庭を見下ろした。
教育という名の体罰を一身に受けるしかない、恥部まで裸にされた男性患者たち。
下卑た笑い声に肩を揺らす職員たちと、教会への目隠し目的で立てられた、隙間のない木板の仕切り。
その反対側に、誰からも希求されなかったはずの、向日葵の行方を見出した。
見つけてしまった。
見窄らしい花束を手向ける、五〇五号室の例の患者と、そして、可憐な手付きでそれを受け取る、ルビの姿を。
『お見舞いに来てくれる……?』
いつも二人で過ごしていたその中庭が、丁度五〇五号室からよく見透せることに、タフィは初めて思い至る。
勢いよくカーテンを閉めた。目がギョロギョロと右顧左眄する。
「また西棟屋上の鍵が見つからないよ」
と、若い医師の一群が廊下を行き過ぎていく。
「柵は?」
「さあ、そこまでは」
「あすこはだめだよな。あの下、全部便所で窓がないだろ。気付きにくいんだ」
「……そういえば、またガリウムが入ってきてたな」
「腐食か」
「ルビなんて医師、いたか?」
「知らない。患者と間違えてるだろ」
「五〇五号室のベッドがまた空かなきゃいいが」
タフィは眩暈を覚えて、後方のベッドにぶつかる。
「……だから言ったんだ」
うつ伏せのままで、患者は言った。
「ベッドでジャンプするなって。仔ザルは、ベッドで寝てるしかないんだって。――俺は殺されない。俺は。俺は、殺されないぞ、」
広い胸に抱かれたルビが、病棟の窓、閉じたカーテンに、タフィの気配を認めて笑ったようだった。