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上野原市棡原の寺院調査(22/11/05)
前日に引き続き2度目の上野原である。前から「地域コミュニティにおいて寺院が果たす役割」というテーマで研究をしてみたいと思っていたので、その実例収集として、上野原市北部の山村である棡原(ゆずりはら)・西原(さいはら)地区を選んだ次第である。
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まずは7:01発のバスに乗り、市街地の外れにあたる新井というところから歩き始めた。最初の訪問先は、県道から沢沿いに約2km、標高差にして200m近くも登ったところにある登下(とっけ)の集落である。建設会社があって若い人もいるが、人口わずか8人の集落では寺院の維持も厳しいとみえ、山手に建つお堂は壁板の至る所に破れ目があった。
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県道に戻り、尾続(おづく)・用竹(ようだけ)と続く集落を、時にバスの力も借りつつ回ってゆく。特に用竹地区は寺院からの眺めが素晴らしく、末永く残しておきたいと思えるような風景だった。ほかに印象的な寺といえば、これも山奥の今野というところにある福寿院で、沢向かいの高いところに立つ孤高の本堂が印象的だった
。
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県道を奥へ進んでゆくと、やがて棡原の中心集落にたどり着く。小中学校の廃校もある大きな集落で、山の斜面に沿って畑が上に伸びており、檜原とは比較にならないほど空が広く眺めもよい。南向きの斜面は今もよく耕作されており、実態はともかく理想郷的な山里の感があった。
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さらに上流に進んで、大垣外(おおがいと)・沢渡の集落まで歩いた。特に最後に訪れた沢渡の東光院は曲者で、ゼンリン地図に示された建物が実は単なる稲荷神社であったなど、位置を特定するのが極めて難しかった。終バスの時間が迫る中、これを最後にと飛び込んだ道で鄙びた仏堂を見つけ、未知の二十三夜塔まで発見したのは収穫だった。
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結局この日は1日を通して13ヶ所の寺院を歩き、ほぼ全ての寺において住民の話を聞くことができた。最も興味深かったのは、時に集会場と一体化している九十九里平野の寺院群と異なり、この辺りの堂宇が新年会・施餓鬼供養塔を除いて殆ど活用されていない点である。
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本来は仏教の役割を考えれば自然な発想なのだろうが、もう少し活用方法を工夫し、境内を地域に開かれた空間にすることで、地域ぐるみで寺院を維持するという意識を共有する必要もあるのではないかと感じた。
また、檀家数が数軒という状況で、老朽化が進行していても、地域のコミュニティが生きていれば寺の維持は何とか可能だという事実も、話を聞いていて何となく分かってきた。研究にどう活かすのかは見えないが、今後調査をする際には心に留めておきたい。
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