北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ―デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』 刊行記念「Y2K・ボーカロイド・現代美術―〈セカイ系〉文化論の現在地」イベントレポート
はじめに
新しい文化の醸成は、多様な要因によって引き起こされる。それは作り手=プレイヤーであり、受容者=観客全体が必要となるだろうが、そこと直接には関係のない第三者(それを世間と呼ぶのか、大衆と呼ぶのか、社会と呼ぶのかは分からないけれど)をつなぐ存在が必要になってくる。それはメディアであり、マネージャーであり、イベントスペースであり、多様である。ただおそらく、そのような第三項を批評と言ってもいいだろう。
北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ―デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』の刊行記念である今回のイベントはアーティスト、ライター、批評家、美術家が介し、一つの新しい場をより拡張し、創造していくようなものになっていた。またトークの間には実際のVJや映像などのパフォーマンスを織り込む当たり、一つの作品としても機能しているイベントであった。
以下、イベントに関して、考えたことなどを列記していく。
<TALK1> 柴那典、宇川直宏、北出栞
第一部は本を刊行した北出栞さんを中心に音楽ライターの柴邦典さんと、DOMMUNEの宇川直宏さんを交えて、ボーカロイドの話から始まり、そこからテクノロジーと音楽の関係、またこの先の人間は一体どうなっていくのかというトークが行われた。
あまりこのような言葉で語るのはよくないのかもしれないが、やはり世代間での感性はそれぞれで少し違うんだろうな、と感じることは端々にあった。
北出さんが一貫してボカロ=主体という内容で話をしていたのは、もしかしたらあまり人によってはピンとこない内容なのかもしれない。
個人的なハイライトは①柴さんの人間=IP化と②北出さんと宇川さんのやりとり。
現在のコンテンツにおける作品<IP(知的財産)という考え方。今でこそ産業としての作品では当たり前の概念だが、それが多くのものにも当てはまりつつある。例えば音楽ならば、その「音楽作品」だけでなく、そこに付随するMVやイラスト、またイベントなどを全部ひっくるめたものになっていく。そして柴さんの予想(想像?)ではそれが今後人間=IPになるのではないか、という意見が出された。
それは果たしてよい未来なのかわからないが(柴さんはここでは「ワクワクディストピア」と形容していたが……)、いずれにせよカオスな状態になっていくことは間違いない。ただ、もしかするとそのようなカオスの中でまた新しいカルチャーが醸成されていく可能性も持っている。
またもう一つ、印象的だった宇川さんと北出さんのやりとりは、宇川さんの「初音ミクちゃん」という呼称に対しての違和感を北出さんはそれを否定的に捉えていた部分。初音ミクを「ちゃん」と呼ぶことは、事物を対象化し、自分とは離れ、なおかつ偶像存在として扱うものとして見なすことになる。北出さんの主張はボーカロイドと主体の融解性だからこそ、ミク=ボーカロイドを対象化・愛玩化するのは奇妙なことだというのは論理的なものだ。(「ボカロ=自分」なのだから、そこに「ちゃん」付けをするのは、自分自身の存在とボカロを切り離しているという感覚)そこに対してはっきりと批判的意見を述べていたのはクリティカルだった。
<Performance1> KAIRUI × 米澤柊
KAIRUIさん、米澤柊さんが行った30分のパフォーマンス映像を配信。
KAIRUIさんはボーカロイド楽曲をニコニコ動画をはじめ、ボカロ楽曲を投稿しているアーティストになる。今回の「セカイ系」的な感性としては確かに合致している。
米澤柊さんは個展も開き、佐々木敦『ニッポンの思想』の挿絵、また東京スカパラオーケストラ「会いたいね。゚(゚´ω`゚)゚。 feat.長谷川白紙」のMVにも関わっている気鋭のアーティストだ。そんな二人がタッグを組んで行ったパフォーマンスが流された。
近年、電子音を巧みに操り音にも声にもエフェクトをかけ、ジェンダーを融解させるような曲+アーティストが出現し始めている。少し前に「ユリイカ」でhyperpop特集が組まれていたが、日本から出てきているhyperpop的感性はセカイ系などの土壌から出ているのではないかと最近は考えている。
(「hyperpop」というワードがあまり当てはめられている人たちが使われるのを好まないことが多いのも承知の上であえてこの言葉で同定してみる。)
<TALK2>布施琳太郎 、藤田直哉、北出栞
第二部のトークは北出さんはそのままで、美術家の布施琳太郎さん、また批評家の藤田直哉さんが登壇して行われた。
最初は布施さんのスライドから始まり、セカイ系的主体(ボカロ=私の意識)という提言、またその後、経済との絡みはどうなっているのか、という話題に。自身の美術作品制作の経験や実際の展示運営の観点から意見を述べ、具体から抽象、抽象から具体へと飛ぶような議論を展開した。また年代的にもわかり合う部分があるのか、かなり北出さん自身も頷いて傾聴している部分が多かったような印象を受けた。
その後は藤田さんが北出さんとの対比として、テクノロジーと融解した自己(ポストヒューマン的主体)とそれでも生み出される生々しい自己(近代的主体)を対置させた。北出さんは前者を支持するが、それは現実の生々しさを見えなくすることなのではないか、という問題提起を行っていった。
藤田さんは二人より少しだけ年上で、今まで東浩紀さんを含めたゼロ年代批評界隈を見てきている人のため、「セカイ系」的な言説をよく知っている存在だ。
僕自身も十年来お世話になっている研究会の先輩だが、テクノロジーを礼賛する経験を持ちながらも、ネットをはじめとしたテクノロジーへの警告も持ち合わせていた論客でもある。そのため、テクノロジー=私というポストヒューマン的感性に対する批判も、様々なことを理解した上での発言であることは間違いない。
<Performance2> Telematic Visions×cosgaso
正直なところ、僕自身は北出さんの本とこのイベントがあるまでTelematic Visionsさん、cosgasoさん、二人の存在を詳しく知らなかったが、楽曲+映像を鑑賞してセカイ系的な透明感は確かに感じた。
映像セットはどこかゼロ年代の感じもあり、今回の最後の映像作品は『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』でも取り上げられていた『CROSS†CHANNNEL』をどこか思い出した。懐かしい。
感想
ここからは完全に自分の個人的な感想になるが、このテクノロジー=私の感性は自分の連載でも触れた部分になる。
そして僕自身も藤田さんが指摘した、テクノロジー=私の問題は非常に逡巡して連載を書いていた部分でもある。主体を消したものを肯定するのか。「人間」という存在はいらないのだろうか、など。
ただ、僕はどうしても残ってしまう「心」の部分は拭い去れないような気がして、そこが重要なのではないかという問題提起を書いていた。
布施さんが言っていた「セカイ系的主体」に対して藤田さんは「近代的主体」というワードを対置させたが、僕自身の感性は布施さんや北出さんと同じようなものを持っているのは間違いない。そしてそこにこそ主体を剝奪されている僕たちの希望=祈りがあることもそうだと感じている。
ただ、やはりそれを全ての人類が、それこそ人類補完計画的に思考してしまうのは、少しおかしいし、それによって損なわれてしまうものも多いのではないかと感じているが、現在の僕の意見だ。
「近代的主体」というとどこか古めかしく感じてしまうものだが、「主体の再構築」は非常に重要なテーマだと思っているので引き続き考え続けたい。