わたしが考える、社会課題を解決するための「官民共創」のポイント
1.行政の限界
グラフは、総務省が発行している「令和4年版地方財政白書」の、地方自治体の経常収支比率の推移である。
経常収支比率とは、かんたんに言うと、「固定的な経費がどれくらいあるか」というものである。
都道府県では近年、93~95%程度、市町村では90~94%程度、自治体全体では93~94%程度で推移している。固定的な経費は、公務員の人件費や扶助費と呼ばれる住民の社会保障にかかわる経費、あとは借金返済などである。
この経常収支比率はもちろん低い方がいい。低い方が「財政に弾力性がある」と呼ばれる。自由に使えるお金が増えるからだ。収入が多ければ多いほどいいが、その分支出が多ければあまり意味がない。会社経営もそうだが、自治体財政もバランスシートで見なければならない。
「固定的な経費」には人件費等があると書いた。では、公務員の賃金をカットをすればいいじゃないか、という声もある。しかしここには「人事院勧告」というのが大きな壁がある。実質的には自治体が独自判断で(得てして、不祥事があったことのお詫び的な施策として)、特別職(市長や副市長、教育長など)の報酬や、公務員一般職の賃金一律カットなどを実施するが、その効果は限定的と言ってもいいかもしれない。もちろん、身を切る改革として公務員が自ら賃金カットをして、財政の弾力性を高めようとするのは素晴らしいことだが、それは政治家(首長)による判断が大きな位置を占めている。社会保障経費も公債費も、カットは正直なところ難しい。生活保護をできる限り認めるな、のような声もある。しかし実態は、すでにかなり生活保護のハードルは高い。これ以上、社会保障関連経費を削ることは、イメージがしづらい。
そうなると、自治体財政で自由に使えるお金というのは、本当に極小であることが分かる。私が議員を務めていた滋賀県大津市では1600億円程度の一般会計予算規模である。人口30万人ほどのこの自治体をケースとして考えると、その5%は80億円である。この80億円から「投資的経費」と呼ぶ道路や橋、学校、公園などの建設・修繕等の費用を捻出しつつ、さらに余ったお金で、自治体独自の施策に取り組むのである。
一言でいえば、自治体は「貧乏」なのだ。
使えるお金がほとんどない自治体にとって、頼りになるのは今の時代、民間である。
「民間でできることは民間で!」ということで、進められてきたのが「小さい政府」志向の、指定管理制度の活用や、業務委託である。行政がやると経常的にお金が必要なのを、民間に任せることで、事業の縮小や撤退もしやすくなる(もちろん拡大も)。また、単純に行政が運営するよりも安く運営することができる。(公務員人件費は世間一般の水準から高いと評価されている。私の肌感覚では、人によるので一概には言えない。)
ここ数年、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、公衆衛生の重要性が再び注目されるようになってきた。そうだ、もともと人間にとってウイルスは天敵で、感染症対策は重要な社会問題であり続けてきたのだった。結核や天然痘などはほぼ克服されたとはいえ、かつて多くの人がウイルスによって命を失ってきた。そうした観点では、社会はまだまだ公共の力を頼りにしている。
一人ひとりが安心して生活できることを「公共」は担っているのだ。が、行政にはそれを支える余力がなくなりつつある。
2.「公共」の再定義
昨年(2021年)の12月。デジタル庁における議論で、聞き慣れないワードが紹介された。「準公共」である。
「公共」は行政が一義的に担うもの。なんとなく、こういう認識が多くの国民にあるのではないだろうか。日本では(日本以外でもそうなのかもしれないが)、「公共」とは「おおやけ(公)」、「おかみ(役所)」のような位置づけで捉えられえていることも多い。
日本の統治システムは、明治以降、「上から」降ってくるものだった。自由民権運動により、一般国民の政治参画は徐々に進んでいったものの、「人権」という文脈からの「抵抗・獲得」が中心だったように私には映る。大きな流れとしては、「おかみ(役所)」が言うことに臣民は従う中で、自分たちが「人」として生きていくために平等性の観点から、ひとつずつ自由の領域を獲得していったのだろう。これは明治以降に限った話ではない。封建制度下にあった江戸期は「殿様」が「領民」を統治するスタイルだった。長らく固定された身分制度は当たり前のものであったし、「公共」は殿様が担うものであった。
日本は近代フランスやアメリカのような共和制を起源としてはいない。元首がいて統治されるという前提で「公共」が成立していた。
戦後、日本国憲法が制定され、普通選挙権が国民に付与され、国民主権が確立した。本来であれば、「公共」はこの段階で国民が担うものとなっているはずであった。しかし、実態として国民が「公共」を担っていたのかは評価がわかれる。
それは選挙で選ばれた国会議員によって構成される行政機能としての国会や、自治体制度が決定・監視する中で、「おかみ」「役所」が公共的な事柄を担い、社会安定の機能を果たすことを期待していたからである。形式上は確かに国民ひとりひとりが「公共」を担っていたと言えなくもない。しかし実際には、国がやることを決めて、(機関委任事務として)自治体に仕事を下請けに出し、自治体はそれをこなしてきた。公共の担い手は、やはり行政であった。
経済成長を経て、ひとりひとりの生活や豊かさにおける経済の重要性が膨らむ中で、「仕事」は「お金を稼ぐこと」であり、公共的な役割(たとえば、町内会の役や、消防団の役、地域の見守りや、子どもたちの世話など)はボランティアとして分離してしまった感がある。
国民の三大義務として幼少期に学校で習うのは、「納税」「教育」「労働」である。
この3つに含まれない「公共的役割を果たすこと」は国民の義務ではないように思われてしまうかもしれない。
「労働」で得た報酬をもとに「納税」して、その税金が行政運営の財源として活用されてきた。いっぱい稼ぎ、納税することで、国民は「公共」の一部を担ってきたとも考えられる。極端な捉え方をすると「労働」「納税」ではない仕事、ボランティア的な働きは、「やらなくてもいいもの」となってしまった。これにより、「個人主義」「孤立主義」的なライフスタイルを生み出した。
いま、世の中は、大きな揺り戻し期にある。
人口減少や少子高齢化だけではなく、長引く経済低迷、個人の出現による価値観の多様化などが背景にある。もはや「公共」を弱り切った行政だけに任せておくには厳しい時代が到来している。
だから、「公共」を、みんなで担おうというものである。
だが、ここで考えたい。そもそも「公共」というものが、曖昧模糊なものである。「公共」とは何だろう?
デジタル庁がディスカッションペーパーであらわした「準公共」という概念は、「公共」のグラデーション性を見える化したものである。
従来、「おおやけ」が担うとされてきた「公共」の仕事を、必ずしも「おおやけ」だけに頼らず、みんなで担っていく必要があるのではないという、「公共の再定義」のアクションである。
国民ひとりひとりのニーズやウオンツを満たし、豊かな生活を過ごす、がんばりに応じた恩恵を受けられる、そうした社会をつくっていくために、いわゆる「デザイン思考」が公共政策に求められている。
「デザイン思考」は、デザイナーが持つ発想法とされ、顧客中心主義とも解される。顧客へのヒアリングや観察を行うことで、顧客の思いや、インサイト(内面)を把握し、本当に必要とされるものを創造するプロセスを支えるのがデザイン思考である。
現下の日本では、人口減少や少子高齢化によりさまざまな問題が、社会課題として顕在化してきている。
過疎が進むことによる「地域の足」の維持や、地域医療介護の問題、高齢者の増加による健康増進や雇用確保の問題。医療費の縮減や、少なくなった宝としての子供の教育の問題など。このほか、地域においては担い手の確保やコミュニティの維持なども重要な課題となってきている。これらをデザイン思考によって解決しようとするためには、行政だけが頑張ってもコスト高であろうし、なによりも顧客視点に基づく公共サービスの整備は充実し得ない。
民間企業が持つ新たなテクノロジーや発想。さらには行政の枯渇する財政を補完するための民間の資金。さらに住民(市民)の「公共」への施策推進への参画、デザイン思考をまわすための政策立案過程への参画も求められる。
もう「公共」は行政だけが担うものではなくなっている。
民間企業や、一人ひとりの住民が、「公共」を担うために、それぞれの立場で活動・仕事をすることが、結果的に社会の安定性確保につながるとともに、ひるがえって一人ひとりの生活の充実、将来への希望といった豊かさにつながっていくのだろうと思う。
「準公共」という概念を用いて国(デジタル庁)が示した分野は、防災や健康医療、教育、インフラ、モビリティ、食関連産業など、幅広い。
「おおやけ」が、「ここが準公共ですよ!」というのを定義するのもおかしいといえばおかしいが、国と国民は対立するものではなくパートナーであることを踏まえると、国はディスカッションのためのアジェンダを提示していると考えてもイイ。
私たちは、この「準公共」とされている領域において、一人ひとりの生活がより良くしていくために、何ができるだろうか。
「おおやけ」が、「この公共サービスをやりましょう!」といって、公共サービスを定義するのではなく、わたしたち自身が「公共サービスを定義していく」ことが求められているように思うのである。
3.社会課題を解決するための「公共サービス」づくり
行政が優れているのは、幅広いリソースを活用した公平性ある構想・企画力であり、施策推進にあたっての権威性、公共性、信頼性である。一方で、スピード感が遅いことや経済性といった点では、民間のほうに分がある。
これは、制度面に影響を受けているといえる。行政は、国民や市民など有権者の代表である議員集団の議会で議決された事柄を、執行する機関という性質がある。そのため、決定するためには、予算編成やそのための準備、また執行に向けた準備(公募手続き)、検査といったプロセスが発生するからである。
これら一つ一つのプロセスは重要である。議会の持つ影響はそれなりに大きく、政策形成過程の中に市民意見や議員個人の思いがインストールされることも重要である。が、スピード感を阻害する。
そもそも市民意見を政策に導入しようとするならば、行政が単独・直接で行ってもよい。議会には説明責任が伴うが、公平性、公正性の観点から、しっかりと説明できることであるならば問題ないだろう。
あとは予算(歳出)が絡むと、スピード感がいっきに減速する。予算案が否決されることはよほどのことがない限り、ないだろう。とはいえ、予算編成のためには1か月以上前から事業内容を固め、事業執行のために必要となる概算額を見積もり聴取するなどして集める必要がある。さらに議会にしっかりと説明責任を果たし、1か月にわたる定例議会などを経て議決される。ざっと考えると、起案から議決まで短くても3カ月。その先の予算執行に入るまでには、さらに1,2カ月はかかることが考えられる。必要不可欠なプロセスではありながら、これではスピード感を持った施策立案もできない。
もう一つ問題となっているのは、一度決めた事業内容を、そう簡単に変更できない事である。
多くの公共サービスは、行政自身によるものと、行政から委託されて民間事業者が行うものの2つに分かれている。いずれにしてもあらかじめ定めたプランに沿って、事務事業を進めるのである。
確かに、あらかじめ解決策が奏功することが明確な事務事業については、このやり方もはまるだろう。Aという課題に対してBというプラン通りやればいいだけなのだから。その場合、しっかりと決められた通り、しっかりとやってくれる事業者を選んで委託するか自前で事業をやればいいだけである。
しかしである。課題があるが、その解決策として何がいいか、よく分からない。仮説(解決策)はあるものの、その仮説(解決策)が自分の町でも奏功するかは、やってみなければ分からない。という場合は、その取り組みが実際にFITすれば問題ないとは思う。しかし実際には、「やってみなければ、分からない」のである。
この「やってみなければ、分からない」課題に対しても、従来の公募プロポーザルの枠組みを用いて、課題解決にアプローチしようとすると、スピード感はなく、時間はかかり、さらに途中で解決策の見直しもしづらいことから、結果的に高コストになりがちである。市民や住民にとって、価値あるサービスを提供できているのであれば、結果的に問題ないかもしれないが、もしそうならなかった場合は、議会や市民からの批判、行政内部(市長や上司)からの評価がついてくる。自然と、そうした取り組みは躊躇するケースが増える。ゲーテ「ファウスト」においてメフィストフェレスが述べる一言が思い出される。
解決できるか分からない問題に時間と労力を使って失敗することは、最初から何もなかったことと同じこと。
そう捉えられるとしたら、公共サービスは再定義されていかない。
私たちが、取り組むべきことは、「公共」をみんなで担っていくべきことであり、行政にその責や任を一義的に押し付けるのではなく、新しい何かを作っていくことだろう。行政はそれを許容していくべきであり、民間企業や市民をパートナーとして認め、公共政策を行政の掌中から解放する勇気と決断を持つことである。当然、議会の理解が必要である。
4.課題を解決するために、わたしたちができる共創
端的に言うと、VUCA(先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態)の時勢にあって、「準公共」領域の公共課題を解決するために、あらたなプラットフォーム(共創の場)が必要である。
課題解決策が明確なケースでは、従来の指定管理や業務委託(公募プロポを含む)といったスキームは機能するだろう。しかし、そうではない「課題はあるがその解決策は分からない」、もしくは「課題さえもはっきりと分からない」場合は、新たなスキームでのアプローチが必要なのだろうということ。
指定管理や業務委託は、ある意味、民間活力の活用という点で、「官民連携」である。
他方、民間と対等な立場でパートナーシップをむすび、ともに課題に取り組む取り組みは、民間と行政の相互運動であり、連携ではなく、「官民共創」というワードがふわさしい。
付言しておかねばならないのは、「官民共創」が素晴らしいのではなく、もう一つのアプローチであるということだ。ある時には「官民連携」も素晴らしいし、ある時には「官民共創」が素晴らしいのである。
何度か、このnoteにも書いてきているように、私が取り組んでいるのはこの「官民共創」という新たな課題解決のためのアプローチ、姿勢である。官民共創は行政主導で進められることもあるかもしれない。だが、「自治体の決定権問題」を乗り越えなければ、誠に共創はできないのではないか、という認識を持っている。そういった点でいえば、極端には、民間主導で課題解決に取り組む中に、行政が参画するという方が、イメージとしてはすんなりいくと考えている。行政から見ると、民間と共創するのであり、民間からすれば行政と共創するのである。つまり、民間主導であれ行政主導であれ、「官民共創」というカタチが整うのであれば、よい。
行政が「おかみ意識」やプライドを持たずにコミュニケーションできるかが重要であると同時に、民間企業も行政に対するリスペクトや、行政内部のルールや事情をよく理解しておくことが求められる。共感であり、その知識が必要である。またそのための基本的な人間関係を形成していくことも必要である。
簡単に「官民共創」と「官民連携」の違いを図表で表したい。
本記事はできるだけ自社サービスである「逆プロポ」の紹介には収斂、矮小化したくないが、「逆プロポ」は現在、「官民共創」の主なアプローチ方法として着目されていることから、簡単に触れておくほうがいいと考える。
「逆プロポ」は、株式会社ソーシャル・エックスが開発、運営する新しい「官民共創」のためのプラットフォームサービスである。
単なる行政と民間とのマッチングサービスではない。課題ドリブンである。取り組みたい社会課題や地域課題のテーマを、民間企業が世に公表するところからはじまる。もちろん既存プロダクトやサービスありきではなく、自社の強みをいかしつつ、パーパスを重視してどのような社会課題テーマを掲げるのかを重視する。
そのテーマを見た自治体が、公募に対してエントリーをする。民間企業はエントリーされてきた自治体が抱える課題を見て、一緒に共創したい自治体を選ぶ(採択する)。そして、自治体が取り組みたい課題を、公募した企業の負担により、解決策を模索していく。ざくっというと、そういうスキームである。興味がある方は、サイトをご覧いただきたい。
私たちが「公共」問題に積極的に関わっていくためにできることは、課題や解決策を、行政と民間の立場を超えて、一緒に考えていくことである。そのための「逆プロポ」に代表されるプラットフォームも、ようやく世にできている。
自治体間競争が激しくなってきているといわれる。いまやリモートワークの進展により、以前よりもどこにいても仕事ができる環境が整ってきた。もちろん、生活環境も大きく変わってきている。パソコンからボタンを押せば、重たい荷物も翌日にはほぼ全国どこでも受け取ることができるようになってきた。東京の大手企業に勤めながら、物価も物件費も安い地方に住むことも、そんなに珍しい事例ではなくなってきた。自治体にとっては、法定受託事務をやっているだけでいい時代は、もうだいぶ前に終焉しているが、2000年代から20年経つこれからの時代、より一層、自治体間の差がアウトプットとして如実に出てくると思われる。
自治体を選ぶのは、住民だけではない、そこで働く公務員も同様である。
地方公務員の「共通資格化」の議論が緒に就いたところではあるが、優秀な公務員の地方自治体からの流出がここ数年、続いているような印象を私は受けている。現在のところ、流出先は主に民間企業であるが、自治体間の人材移動がしやすい環境となれば、優秀な地方公務員から選ばれる自治体とそうではない自治体との間で、差が出てくるだろう。シビックプライドや出身自治体、ちょっとした処遇の差などはあまりインセンティブにならないだろう。選ばれる自治体は、「プラットフォームとしての行政」の機能性ではないか。よい機能を持つ自治体は、優れた人材を呼び、企画を生み出す。そして住民から選ばれる。忘れたくないのは、民間であれ公務であれ、人は、仲間と成長機会、(と生活の基盤)を求めて職場を決めることだ。
社会課題や地域課題への取り組む姿勢は、その自治体の命運を握るといっても過言ではないかもしれない。姿勢が機能を方向づける。
民間も市民も、その地域の「公共」を担う必要性が高まるのであれば、もはや、行政がどうとか、民間がどうとか、というポジショントークはあまり必要ない。行政と民間が対等な立場で、課題に向き合うことが極めて重要になってくるのである。
5.官民共創を成功させるために
多様な社会課題や地域課題を解決したいのは自治体やそこに住む住民、市民だけではない。その課題解決をパーパスと捉える民間企業もいる。民間企業にとっては、新たなビジネスチャンスでもあるし、上場企業や非上場に限らず、社会的評価を得るための手段でもある。
2022年夏に公表された「経済財政運営と改革の基本方針」(通称、「骨太の方針」)には次のように記載がある。
社会課題の解決は、付加価値創造の源泉であり成長戦略として捉えられる。この潮流は、ESG投資の観点や、ステークホルダー資本主義の進展によっても国際的に共通している。大きなうねりがいま世界を揺るがしている。
課題解決を官民が対等な立場で、ともに取り組むこと。そのためには、双方のチャレンジが必要だ。チャレンジなくして、アウトプットは出ない。先に取り上げた「逆プロポ」というスキームは官民共創の主要な方法であるが、今後、新しい官民共創の手法が生まれるかもしれない。そうしたスキームを使って官民共創に取り組むことも検討が求められる。いずれにせよ、私たちはいま、大きな時代のはざまにいる。
官民共創を成功させるために、どうすればいいのだろうか?
(1)課題を、行政と民間が一緒に考えること
まず大切なことは、世にある課題を行政と民間が一緒に考えるところからである。課題とは、多くの人にとって解決すべきと捉えられる問題である。
行政が議会から提起される問題は課題であろう。多くの市民から指摘される地域の問題も課題かもしれない。もしくは行政だけが気づくことができている重要な問題も課題かもしれない。こうした課題を設定する力、課題と捉えるための情報収集力やリサーチ力、幅広いネットワークは、行政が持つ重要なリソースである。
一方で、民間企業は、顧客が抱える課題を解決することで利潤を得てきた。それがたとえ御用聞き営業であったとしても。そうした点では、民間企業は課題解決力を持っているといえる。顧客が法人であるか消費者であるか、もしくは住民や行政であるかの違いはあるかもしれない。そうした違いは、課題解決の対象が変わるだけで本質的に、大きな問題はないだろう。
課題を解決するためにどのような方法が考えられるか。もしくは、その課題は本当に課題なのか。もっと本質的、根源的な課題があるのではないだろうか。そうしたことをディスカッションすることをまずは官民が共創する入り口として取り組むことからすべてが始まる。
(2)既存プロダクトやサービスにこだわらない
官民共創がうまくいかない場合によくみられるのが、民間企業がすでに持つ既存プロダクトやサービスありきで、課題解決策を検討することである。民間企業にとっては当たり前だが、自社でコストをかけて開発したプロダクトやサービスを使いたい。しかしながら、そこにこだわると、課題解決にとって真に必要な解決策を導くことができない場合が多い。
官民共創のルールとして、既存プロダクトやサービスにこだわらないことを明確にしておく必要がある。結果論として、その民間企業が持つプロダクトやサービスを活用することがあったとしてもよい。リソースを活用しようと思うと、そちらの方が手っ取り早いことや効率性が高いこともあるだろう。それはもちろんその通りだが、課題を起点に考えることが重要である。その前提にたって、民間企業は自治体との共創に臨むべきであろうし、ある種の(暗黙であったとしても)ルールや約束を担当者間で話し合っておくことが必要ではないだろうか。
(3)行政の財源はアテにしない
最初に述べた通り自治体には自由に使えるお金がほとんど残されていない。自治体との連携を図ろうとするとき、良く失敗したり、そもそも関係性が築けない場合によくみられるのは、行政の財源をあてにしてアプローチしようとするものである。行政の仕事を受託しようとしたり、新しい仕事を創出するににしても、行政の負担を前提にしたものである場合はうまくいかない。
持続可能なビジネスとして社会課題や地域課題を捉えるときに、価値を提供する相手は行政やその地域に住む住民、市民であるかもしれないが、顧客(お金を払ってくれる人)は、別であっても構わない。
当該地域の交通問題を解決するために、幅広い消費者を相手にしたビジネスモデルをつくり出すことも考えられる。利用者・受益者から対価として収益を得るビジネスモデルも妥当だろう。しかし行政からの補助金や受託を前提にしたビジネスモデルであっては、持続性はない。国庫を頼った事業である場合も同様である。
たとえば、行政の課題として「里山保全」というものがあったとする。ここにビジネスチャンスを見いだすことは簡単なことではない。行政と民間がディスカッションを通じて、「サーキュラーエコノミー」や「エシカル消費」の文脈から、課題解決型ビジネスモデルを考案することができたなら、行政の課題も、民間企業にとっての持続性あるビジネスモデル構築もできるかもしれない。
(4)官民共創プロジェクトを動かす人材を摑まえる
自社や自分の自治体でこうしたプロジェクトを動かしたり、官と民の立場を理解してビジネスモデルをつくり出す人がいれば、それに越したことはない。ただ、官民共創の分野はまだまだ黎明期にある。こうしたことに長けた人材は、一部の自治体や民間企業に限られているのが実際である。
官民共創プロジェクトの伴走支援やプロジェクトマネジメントを担う会社や人材が、市場にないわけではない。実はソーシャルエックスや私もその一部である。
もし自社や自分の自治体で、そうした官民共創プロジェクトを担うことに不安があるなら、そうした会社や人材に頼ることもいいかもしれない。自治体にとっては、プロジェクト単位や、公民連携部門に会計年度職員やアドバイザーの形で任用することも検討の余地があるだろう。民間企業にとっても、ノウハウを蓄積する段階にあってはコンサルティングを受けることもありえる。
いずれにしても、課題ドリブンで官民共創プロジェクトを担うことは、自治体にとっても、民間企業にとっても、重要なアジェンダとなってくる。私のようにビジネス創造の経験と、地方議員としての経験を積んだ人材も、世の中にいる。官と民との人材流動化がまわりはじめていることから、少しずつそうした人材も増えてきている。ぜひそうした人材を摑まえて、「価値創造の源泉」の新しいフィールドに乗り出してほしい。
「公共」は、「おおやけ」だけが担うものではなく、民間企業や市民、住民が一緒に担っていくものであり、それこそが新しい時代の「公共」の在り方である。
それは、家事や育児という分野を重要な経験として意味づけることに近いかもしれない。これまで誰もがビジネスチャンスとして捉えていなかった事柄が、実は大きな可能性を秘めた領域である可能性もある。「公共」は新しいビジネス領域なのである。ビジネスとして課題解決を持続的に導くことが、これからの時代は必要である。いまは過渡期である。
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◇プロフィール
藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc 共同創業者
1978年10月生まれ、滋賀県出身の43歳。2003年に若年者就業支援に取り組む会社を設立。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地域課題・社会課題に取り組む。3期目は立候補せず2020年に京都で第二創業。2021年からSOCIALXの事業に共同創業者として参画。現在、社会課題解決のために官民共創の橋渡しをしています。
京都大学公共政策大学院修了(MPP)。京都芸術大学大学院学際デザイン領域に在籍中。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
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