書写山・圓教寺 秀吉、和泉式部、弁慶、赤松満祐……人物描写が愉快な山寺
西国巡礼でたずねた姫路市郊外の書写山圓教寺を、「三大特別公開」にあわせて2023年9月はじめの猛暑の日、再訪した。前回気づかなかったあらたな魅力がみえてきた。
松がしげる修験の山
姫路駅から路線バスでふもとまでいき、前回と同様、「東坂」という登山口へ。登山口には丸石がまつられている。山梨の丸石のように道祖神の一種だろうか。
「一丁」からはじまる丁石や地蔵さんをみながら、汗をふきふきのぼっていく。丁石の前にはなぜかペットボトルがつんである。
岩盤が露出した「鰐の背」や「砥石坂」が200メートルほどもつづく。修験道の聖地であったことをしめしている。岩が露出し、表土がすくないせいで、松が多い。マツタケもはえるのだろう。30分ほどでロープウェイの頂上駅だ。淡路をはじめとした瀬戸内海の島々や四国までのぞめる。
ずっとツクツクボウシのセミ時雨につつまれていたが、山上ではときおりミンミンゼミの声もひびく。下よりもだいぶ涼しいのだ。
さらに20分ほど、西国33所の観音像と、6つの塔頭が点在する参道をたどる。最盛期は平らなところはほとんど塔頭がたち、1000人規模の修行僧がいたという。
和泉式部は純情なのか、あばずれなのか
和泉式部を紹介する案内板には前回は気づかなかった。
和泉式部は敦道親王に愛され、はじめて彼と寝た朝はこんな歌をよんだ。
親王が27歳でなくなると、藤原道長の娘である中宮彰子の女房となる。
案内板では、和泉式部は親王に愛をささげた純粋で情の深い女になっている。だが実際の和泉式部はそれ以前に橘道貞と結婚して離別し、冷泉天皇の息子の為尊親王とつきあい、その次に弟の敦道親王親王とねんごろになったのだ。
道長は純粋で才能豊かな和泉式部を娘の中宮彰子の女房にとりたてたと
案内板にはしるされているが、道長が和泉式部のことを「浮かれ女」とよんだという事実は書かれていない。
見る立場によって、人の評価は大きくかわる。
赤松満祐の娘の悲劇はムダ?
途中の塔頭、十妙院は、守護大名の赤松満祐が、16歳で殺された娘をまつるためにたてたと伝わる。15世紀の前半の将軍足利義教(1397–1441)は猜疑心がつよく、裏切りを恐れて赤松ら側近の暗殺をくわだてた。そのとき将軍の館にいた満祐の娘がその陰謀を父親につたえると、義教は赤松の娘を殺した。満祐は娘の犠牲のおかげで1441年夏、暴君義教を暗殺することができた……。
命をかけた親孝行の話なのだが、あとで赤松満祐について調べるとびっくり。義教暗殺後、満祐は領地の播磨へのがれて足利義尊を新将軍に奉じ,当時の幕府と対立したが敗れ、切腹においこまれた。娘の犠牲はムダやん!
播州のサグラダファミリア
清水寺のような舞台造りの摩尼殿は一枚岩の上に崖からせりだすようにたっていて迫力がある。1921年に焼失し、1938年に再建された。
特別公開の秘仏如意輪観音を500円で拝観する。
「どうぞ写真も撮ってください」と太っ腹だ。
ガラスケースのなかに20㎝ほどの小さな仏像が安置されている。
寺をひらいた性空上人が桜の霊木に生木(根のついた生きた木)のまま彫った如意輪観音像が摩尼殿の本尊だったが1492年に焼失した。今回の秘仏は、上人の生木如意輪観音像とおなじ種類の木で鎌倉時代に彫られ、2006年に小厨子から発見され、初の公開だという。
さらに杉の巨木の森を5分ほど歩くと、本堂にあたる大講堂(下層は1440年、上層は1462年)と、食堂(1461~)、常行堂(1453年)がコの字型にならび、「三之堂」(みつのどう)を形成している。室町時代の建物はいずれも国の重要文化財だ。
大講堂では「四天王像 91年ぶりの大移動 魔尼殿から大講堂へ」と銘うって500円で特別公開中。摩尼殿にまつられている四天王像(国指定重文・通常非公開)を、1933(昭和8)年以来90年ぶりに本来の大講堂へ移動したのだ。受付の笑顔がすてきな女性が手にぬるお香で清めてくれて、
「どうぞ写真もとってくださいね」
四天王と釈迦三尊像(国指定重文)はまぢかにみると迫力があった。
隣の食堂(じきどう)は長さ40メートルもあり、日本最大の二階建て建築という。
食堂の説明をよくよむと、「15世紀半ばに着工」と書かれているが、竣工年がしるされていない。着工されたが、規模が大きく複雑であるため、最終的な完成は500年後の1963年までずれこんだのだ。長い建設過程によって手違いが生じ、2階南東角の屋根は常行堂の屋根にぶつかってしまった。サグラダ・ファミリア(1882年着工)よりも建築期間が長いとはびっくりだ。
秀吉や黒田官兵衛、弁慶も寺を破壊
食堂の2階が宝物館になっている。
圓教寺は性空上人が966年に創建したが、それ以前の奈良時代の土師器や須恵器、陶硯類が出土している。スサノオノミコトが山頂におりて1泊したという伝説もあり、寺ができる以前から山岳宗教の拠点だった。
「旧大日堂仏像群」の素朴な木像は、仏像の遺体かミイラのようで独特の存在感がある。10世紀から11世紀につくられた木造の仏像で、夢前町・糸田地区の大日堂に安置されていた。
廃仏毀釈をまぬがれるため大日堂は糸田村の所有とされた。昭和30年代、大日堂が老朽化したため仏像群は公民館へ。公民館も廃止されることになり、2006年から一時的に円教寺にうつされた。今も所有者は「夢前町細田自治会」だ。
書写塗という漆器は、秀吉の根来寺(和歌山)焼き討ちからのがれた僧侶がつくったが、圓教寺にとっても秀吉は敵だった。
1578年、三木城の別所長治が反乱をおこし、姫路城にいた秀吉は、別所と毛利にはさまれて窮地におちいり、黒田官兵衛の進言で、見晴らしがよい書写山に本陣をおいた。僧侶をおいだし、2万7000石の寺領を没収した。その後、寺領は500石になってしまった。
平安時代末期にはこんな話がある。
ここで修行していた弁慶が昼寝から目をさますと、修行僧らが弁慶の顔をみてわらう。「鏡井戸」をのぞくと、墨で顔に落書きされていた。弁慶は犯人の信濃坊戒円を講堂の屋根に投げた。戒円は火がついた櫟をもっていたから大火事になり、山内の建物が焼きつくされた。弁慶は再建資金のたしにしようと、千本の太刀をうばうことを考え、千本目のときに牛若丸に敗れた……ということになっている。
この寺は、人物評に独特の角度をつけていておもしろい。
開山上人の遺骨をレントゲンで確認
奥の院にはふたつの「護法堂」という神社建築があり、乙天と若天がまつられている。円教寺の守護神で、奥の開山堂をまもっている。開山堂の等身大の上人像を2008年にレントゲン撮影したところ、像の頭部に上人の遺骨が発見されたという。
帰りは、西坂をくだって日吉神社をへて、かつての甲子園の名門校、東洋大姫路高校におりた。
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