本物のボヘミアンがつどう宿 ニカラグア「マンゴー荘」の青春譚①
京大のアウトドアサークル「ボヘミアン」で沖縄をのぞく日本全国をヒッチハイクでまわり、チベットなどでは少数民族のムラをたずねた。次は「戦争」を自分の目でみたくなった。当時は中東のイラン・イラク戦争と、中米ニカラグアとエルサルバドルの内戦が耳目をあつめていた。中東はイスラムだから女の子と仲よくなれそうにない。だったら1979年の革命で独裁政権をたおしたニカラグアにいこう。
大学3回生をおえて休学し、1988年4月に日本を出発し、アメリカから陸路を南下して3カ月かけてニカラグアの首都マナグアにたどりついた。まずは安宿に荷をおろし、マナグアで連帯活動にたすさわる日本人女性マユミさんにホームステイ先を紹介してもらった。
人ちがいのふりしてナンパ
しばらくして、ふたりの日本人男性にであった。ジャーナリストのカトーさんとコースケさんだ。ふたりとも20代後半だ。
カトーさんは、日本の建設会社を退職し、軍人になりたくてフランス傭兵部隊とアメリカ軍に志願したが近眼のため採用されなかった。「戦場ジャーナリスト」の道があるときいてカメラを入手して中米にやってきた。コースケさんはサンディニスタ革命政権を支援する立場からまじめな報道をめざしていた。
当時、「朝日ジャーナル」や「世界」などの雑誌には、しばしばニカラグアがとりあげられた。
人口300万人にも満たない(当時)ニカラグアは、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が、米国の傀儡であるソモサ独裁政権をを武力で打倒した。
社会主義でもなく資本主義でもない混合経済と非同盟外交、複数政党制をかかげ、死刑制度を廃止した。全国規模の識字運動で識字率を一気にたかめた。
「人権外交」をかかげていた米国のカーター民主党政権(1977〜81)はサンディニスタ政権を援助したが、共和党のレーガンが大統領になると、エルサルバドルなどへの革命の伝播をおそれ、1981年から軍事介入にふみきった。独裁政権のながれをくむ右派ゲリラを全面的に支援し、隣国のホンジュラスの基地からニカラグアに侵攻させた。反革命(contra-revolución)の立場だから「コントラ」とよばれた。
米国が後押しするコントラの破壊活動に苦悩するニカラグアには、「インターナショナリスタ」とよばれる若い男女のボランティアが全世界からあつまっていた。
コーヒーの農場ではたらき、ときには侵略者とたたかうために銃をとり、たき火をかこんでおどり……恋におちる。正義と愛と恋が混沌とした情熱的な革命の国、というイメージに、ぼくはみせられた。
「あしたUNAN(ニカラグア国立大学)の女子寮にナンパしにいくけど、こない?」
カトーさんがさそってくれた。革命の国で恋におちる、という妄想は魅力的だったけど、ぼくは日本でもナンパなんて経験がない。
「いや、ナンパとかやったことないし、苦手なんです……」
尻ごみすると、カトーさんは言った。
「ふーん、そうなんだ、ナンパしてことわられて傷つく自分のプライドのほうが、女の子と仲よくなることより大事なんだね。プライドを大事にするのもひとつの生き方だと思うよ」
えっ? 予想外のつっこみに言葉をのんだ。ぼくはプライドはないほうだと思っていたが、「はずかしい」というのはたしかにプライドの一面だ。なんの利益にもならない「プライド」より、女の子と仲よくなるほうが大切にきまっているじゃないか。
「やっぱり、つれていってください」と思わずこたえた。
ニカラグアは内戦中だから若い男は徴兵されている。大学構内は女子学生が7割を占め、そまつな平屋建ての女子寮では、中庭のハンモックで女の子たちが横になっておしゃべりをしている。
「ほら、ミツルくん、声かけてみなよ」とカトーさんはぼくの背中をおす。
長い黒髪で目がおおきな女の子にちかづいて、声をかける。
「やぁ! ぼく日本からきたんだ」
こちらをむいてはくれたけど、言葉がとぎれてシーンとなる。
そういえばこの子、合コンでしりあった京都女子大のマリちゃんにそっくりだ。
「きみ、もしかしてマリアちゃんじゃない?」
口からでまかせでたずねた。
「ちがうけど、日本の恋人に私がにてるの?」
彼女は笑顔をかえしてくれた。しばらくとりとめもないことを話した。
そうか、ナンパってオレにもできるんだ。それ以来、ちょっとかわいい子にであうと「きみ、マリアちゃんだよね?」と声をかけるようになった。
ニカラグア人はオープンで明るいから、ナンパして無視されることは少ない。6割はニコっとわらってくれる。笑顔さえひきだせば「カフェにいこうよ!」とさそう。
このパターンで、10人以上とカフェでコーヒーやビールをのんだ。スペイン語が不自由だから、それ以上はなかなか進展しなかったけど。
日本人の元看護婦がいとなむ民宿
カトーさんは日本人の看護師さんの家に下宿していた。
マナグア市は、昔はマナグア湖畔に繁華街があったが、1972年の大地震で壊滅した。だから今も中心街がなく、だだっぴろい低木の森のあちこちに住宅街や商業施設が点在している。カトーさんらの下宿先は旧中心部から3キロほどの住宅街にあった。
家主の丸山ナオミさんは、ニカラグアを支援するため、名古屋の教会から派遣されて2年前の1986年にやってきた。39歳だった。当初は看護師をしていたが、ぼくがたずねたときは、看護師をやめて民宿をいとなんでいた。
その民宿をぼくらは「丸山ハウス」とよんだが、その後、中庭にマンゴーの巨木があることから「マンゴー荘」とよばれるようになり「地球の歩き方」にも掲載された。
ぼくも1泊食事つき(正確には「食材つき」)3ドルで下宿することにした。
マンゴー荘は間口がせまく奥行きがふかい敷地で、道路に面したところがリビングで、その奥に丸山さんの居室のほか3〜4部屋が縦にならんでいた。中庭にはシャワーとトイレがあり、マンゴーの巨樹の下にはハンモックがつってあった。
マニラの売春バー以来の再会
ニカラグアは内戦中だから、一般の旅行者はめったにこない。そのぶん、ジャーナリストや右翼・左翼の活動家、辺境をわたりあるく長期旅行者ら、普通の旅行ではせっすることのないホンモノのボヘミアンが丸山ハウスにつどった。
20代後半のキクチさんはいろいろな雑誌で活躍しているカメラマンだ。ぼくと同様、サンディニスタ革命の明るさと自由さにひかれてきたという。
到着して荷をほどくとすぐ
「ミツルくん、市場があったらつれていってくれない?」
歩いて20分ほどのオリエンタル市場を案内した。キクチさんはスペイン語はほとんどはなせない。なのにかわいい女の子がいると、つかつかとちかづいてじっと目をみつめて声をかける。
「うーん、ボニータ! ムイ ボニータ! ベルダ!」(かわいい! むっちゃかわいいねえ)
これをくりかえすだけで、1週間後には恋人をつくってしまった。
ぼくのほうがスペイン語はできるのに……。そのオープンな性格が、明るくて自由なニカラグアの雰囲気とぴったりマッチしていてうらやましかった。
ある日、背が高くてちょっとやさぐれた雰囲気の男が丸山ハウスにやってきた。彼も20代後半だ。
「ジャーナリストをしているクロダです」
え? どこかできいた名前だ。
「フジーです。京都からきた学生です」
ぼくがあいさつすると、クロダさんはアッとおどろいた。
「きみ、2年前の1986年にマニラのYHであったよね。あのときの、換金詐欺にあってあたふたしてたおぼこい京大生だよね?」
「え、あのときのクロダさんですか?」
彼は出版社勤務をへて戦場ジャーナリストになり、ニカラグア内戦の取材にきたのだ。
「いやーあんなぼっちゃん旅行者が、ニカラグアにまでくるようになるなんて、成長したねぇ。おどろいたねぇ」
それからちょっと真剣な顔になって
「あのとき、売春宿で借りたで50ドル、かえしたっけ?」
1986年春、フィリピンで売春を斡旋するバーにつれていってもらったとき、「軍資金」がたりなかった彼に50ドルを貸していたのだ。
「郵便でかえしてもらいましたよ」
そうこたえたことを、のちに後悔することになる。
ガチガチだけどけっこう柔軟な左翼活動家
次にやってきた日本人は、長身でひょろっとした色の白い男だ。
京大の大学院生でサトルさんとよばれた。彼もまた20代後半だ。
軍政による弾圧下のチリの学生組織のほか、ペルーやボリビアなど各国の左翼活動家と交流しながら南米から北上してきた。ニカラグアではもちろん、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の活動家と意見交換するという。バリバリの新左翼系の活動家だ。
そのころ、FSLNの青年組織主催の大規模なパーティーが企画されていた。
「ギャルがいっぱいくるぞ。ミツルくん、ナンパ修業の成果を披露しなきゃ」
「今度こそ彼女をゲットするチャンスだよ」
カトーさんやキクチさんがはやす。だがサトルさんは顔をしかめてカトーさんらを批判した。
「きみたちは、サンディニスタをどういう存在だと思っているんだ。まじめな活動家たちの連帯の場をナンパなんかでちゃかすつもりなら参加するべきではない!」
一気に場がしらけた。
当日のパーティーは……まさに「大ナンパ祭」だった。サンディニスタの活動家といっても若い男女だ。かわいい子がいたらすかさず踊りにさそい、気があえば2人で会場をぬけだして夜の闇に消える。ぼくらも「空手おどり」を披露して注目をあつめ、女の子に声をかけまくった。
翌日サトルさんはカトーさんやキクチさんに頭をさげた。
「すまん、ぼくがまちがえていた。あのパーティーの主要な目的は連帯ではなくナンパだった。ぼくの認識があまかった」
サトルさんって、ガチガチな活動家かと思ったら、けっこう柔軟な人なんだあと、ちょっと親しみをおぼえた。(つづく)