本物のボヘミアンがつどう宿 ニカラグア「マンゴー荘」の青春譚②
平和をいのる日本人僧侶の断食
1988年8月、マナグアの旧市街の中心である国家宮殿を散歩していると、「南無妙法蓮華経〜」とバチをたたく音がきこえてきた。ニカラグアに仏教徒? ちかづいていくとオレンジの袈裟をはおった東洋人だ。
ササモリさんという日本山妙法寺の和尚さんだった。
日本山妙法寺は戦前に旧満州で藤井日達上人がひらいた。戦後、その弟子の僧侶たちは世界の紛争地に身を投じ、平和のパゴタを建立し、平和をいのる断食を実践した。軍事基地や成田空港反対運動にもかかわっていた。
ササモリさんは、イスラエルのシナイ山の頂上で吹雪で服がこおりつくなかで7日間断食し、アウシュビッツでは10日間、水も飲まない断食をした。7日目には目がかすみ、10日目には失明したが、断食終了後に食事をとったら回復した。
ぼくがたずねたときは40日間、水だけ摂取する「平和をもとめる断食」の最中だった。このときは健康そうながっしりした体つきだったが、断食終了時には色が白くなり、頬骨がつきでて、肩もそげおち、ひとまわり小さくなっていた。最後の1週間は自力でたちあがれなくなり、まわりの人が心配して、飲み水にちょっとだけ食塩をまぜた。
「塩があると本当に力がでますよ。アハハっ」
ササモリさんはひとごとのように笑っていた。
ナンパにおけるハーモニカの威力
ササモリさんは1988年10月、解放の神学系の神父やプロテスタントの牧師ら、世界の宗教者、平和運動家とともに首都マナグアからホンジュラスとの国境まで1カ月かけてあるく「平和行進」を企画した。
ぼくはその最初と最後の数日だけいっしょに歩いた。
夜はたき火をたいて、住民とともに平和の祈りをささげ、うたったりおどったりする。
最終日は、100人以上にふくれあがり、あちこちでカップルが肩をよせあって歩いている。うらやましい。
国境のラスマノスという集落で集会をひらいていると、エルサルバドルにでかけていたカトーさんが偶然ホンジュラス側からあらわれた。遊び人風の長身の男といっしょだ。2人ともなぜかモヒカン刈りだ。長身の男かっちゃんは東京の大学生という。
「どうしたんですか? モヒカンになっちゃって」
ぼくがカトーさんにたずねると、
「気分でやってみたんだけど、まわりの反応がおもしろかったよ」とカトーさん。
「アニキ(カトーさん)に言われてふたりでモヒカンにして、葉っぱ(マリファナ)すってたら、ホンジュラスのチンピラにけんかをふっかけられて、ひどいめにあったよ−」
かっちゃんの頬にはキャプテンハーロックのような傷ができている。
平和行進の最後は、国境のインターナショナルゾーンでの3日間の断食だ。
「断食完遂するとギャルにもてるぞ!」というカトーさんのひとことで、マリファナ好きのかっちゃんも断食に参加した。
昼間は祈りつづけ、夜は、みんなでおどる。音楽はカトーさんのハーモニカだ。「軍艦マーチ」「ゲゲゲの鬼太郎」「走れコータロー」……それぞれのリズムにあわせてみんなで断食で空腹なのにおどりくるった。
カトーさんは、最初にニカラグアに入国したとき、「サンディニスタと仲よくなるには音楽の一芸が役だつ」と直観してハーモニカを入手していた。
断食でもカトーさんはすっかり人気者になった。小学校の教室で雑魚寝するときも、かわいい女の子と1枚のシーツにくるまってイチャイチャしていた。すぐちかくに彼女の両親もねていたが、ニカラグアの大人は恋愛には寛容なのだ。
ハーモニカのナンパでの絶大な効果をまのあたりにしたぼくは、数日後にはハーモニカを入手した。
「平穏」に退屈してゲリラさがしへ
傭兵志望だったカトーさんと同様、クロダさんもサンディニスタ革命にひかれたわけではない。純粋に「戦争」への興味から中米にきていた。サンディニスタよりも右派ゲリラのコントラ(反革命軍の意味)に同情的だった。
ニカラグアは「内戦の国」だが、コントラは山中の協同農場などを散発的に襲撃する程度で、政府軍と本格的な戦闘になることはめったにない。独裁政権の流れをくむコントラは民衆の支持はえられず、政権を奪取する力はない。経済を破壊してサンディニスタ政権の支持基盤を切りくずすことが目的だった。そしてそれは、年間3万%というハイパーインフレ(1988年)という形で一定の「成果」をあげていた。
戦闘シーンがなければ「戦争」を取材にきたクロダさんは仕事にならない。
「ニカラグアはトランキーロ(平穏)なのだ! 退屈なのだ!」
バカボンパパの口調をまねてぐちっていた。
クロダさんはニカラグアに入国する前、大西洋岸のホンジュラスとの国境に展開する先住民族ミスキート民族の反政府ゲリラの基地をホンジュラス側から訪問していた。退屈なマナグア生活にへきえきして、今度はニカラグア側から取材するという。カトーさんとぼくもついていくことにした。
ぼくはサンディニスタを支持していたが、政権に抑圧されているという大西洋岸の少数民族ミスキートの状況もしりたかった。それに、カトーさんやクロダさんの影響で、カラシニコフ自動小銃などのソ連や北朝鮮製の武器にも興味をもちはじめていた。
大西洋岸の中心都市プエルトカベッサまでは陸路なら3日かかるから、往路は飛行機をつかうことにした。
カネを紛失したら「ふしだらな人」?
出発の朝、午前4時におきると、貴重品をいれていた腰巻きのなかの現金とトラベラーズチェックがごっそりなくなっている。
大騒ぎしながら、ベッドの下や中庭やハンモックなどをさがしていたら、丸山さんがおこりはじめた。
「ミツルさん、あなたがそんなふしだらな人だとは思いませんでした!」
え? カネをなくすのがそんなふしだらなことなの? そんなにおこられることなの?
ポカンとしていたら、丸山さんはまくしたてた。
「(家政婦の)アナを夜中に部屋にいれてたんでしょ? 部屋の扉があいてるからおかしいと思ったんです。彼女がぬすんだにきまってます」
たしかにぼくの部屋でスペイン語をおしえてもらったことはあるが、昨夜はぼくはクロダさんの部屋でおそくまではなしていた。
「ゆうべはぼくと11時すぎまで話してましたよね?」
救いをもとめると、クロダさんはニヤリとしてうそぶいた。
「ゆうべはオレははやく寝てたからしらないよ」
「ひどいよ、クロダさん!」と抗議するが、どこ吹く風。
「ほらみなさい。ミツルさん、そんなふしだらな人にうちにいてもらうわけにいきません!」
丸山さんはますます激高する。
そのとき、ぼくのズボンの尻の部分がざっくり切られているのがみつかった。
満員バスでズボンの上からナイフで切られて、腰巻きの中身をぬきとられたのだった。
ようやく「ふしだら」容疑がはれた。そして、タクシーで空港にむかい、大西洋岸にむかう小型飛行機にのりこんだ。
「私をだましたでしょ」そんな記憶は……
ニカラグアは太平洋岸が発展し、東の大西洋岸は広大なジャングルがひろがっている。その中心都市のひとつプエルトカベッサの中央公園でサンディニスタ軍のトラックをつかまえて、ホンジュラスとの国境をながれるリオココ(ヤシの川)にむかった。ゲリラからねらわれないよう、地雷の餌食にならないよう、猛スピードでつっぱしる。
コニーという18歳の女性兵士が広報官だ。緑の軍服がキリッとしてかわいいのだけど、ニカラグア人にはめずらしく、「きれいだね」「キミといっしょにいられたら幸せだろうな」などとほめてもニコリともしない。広報官という名目だが、あやしげな3人組の監視役だった。
彼女とは3日間いっしょにすごしたが、国境の川リオココに到着したのをみはからって、「ジュースを買ってきて」と小銭をわたし、彼女が店にはいったすきに逃げだした。
その後、ぼくらは2日間ジャングルの小径をたどり、カヌーをチャーターして、リオココ沿いの密林のなかにあるコントラ(反政府ゲリラ)の基地を訪問した。
ぼくは7年後の1996年にもプエルトカベッサを再訪した。空港の売店でビールを注文すると、赤いワンピースを身につけて、娘をだいた女店員が不機嫌そうな顔で声をかけてきた。
「ひさしぶり。あなたのこと、おぼえているわよ」
「そんなわけないよ。7年前に一度きただけなんだから」とぼくが首をふると、
「じゃあまちがいないわ。本当に記憶力が悪いのね。それでも日本人なの?」
なんでゆきずりの女に悪態をつかれなくてはならんのだ。そもそも「ひさしぶり」と言いながら、この不機嫌さはなんだ?
「あなた、私をだましたでしょ?」
真剣な表情でぼくの目を凝視する。女性にふられた記憶こそあれ、女性をだましてすてた、なんて甲斐性はないが……と考えているうちにハッと思いだした。コニーだ。
「どう? 思いだした? あなたたちのせいで、1週間の謹慎をくらったのよ、その間の給料なし。どれだけつらいかわかる? ちゃんと許可をとらないのは違法行為よ」
「でも申請しても許可はださなかったろ?」とたずねると、はじめて笑みをうかべた。
「だってコントラにあいにいくっていうのがみえみえだったもん」
「だったら今、逮捕しろよ」と言うと、
「残念だけど、もう権限はもってないの」と言って、大笑いしはじめた。
彼女は26歳だが、きびしい暮らしのせいか30歳のぼくより年上にみえる。
「この野郎、こんなに老けやがって」と、ぼくは笑顔で日本語でさけんだ。
「どういう意味?」とたずねるから、
「いつまでもきれいで魅力的だね、という意味だよ」とこたえておいた。
1989年1月に話をもどす。
1カ月におよぶ大西洋岸の旅は、バスでカネをぬすまれたから倹約をしいられた。
カトーさんやクロダさんがビールをのんでも、ぼくはコーラでがまんした。
「ミツルくん、この暑さでビールものまないなんて、しぶい生き方だねぇ」
「ビールがきらいなんて、お金がかからなくていいねぇ」……
カトーさんとクロダさんはぼくをからかいながら、2本、3本とおいしそうにビールをのみほした。
マニラでクロダさんにかした売春宿の50ドル、「かえしてもらってません」とこたえておけばよかったと、本気で後悔した。(つづく)