能登2011-24⑲4000年つづいた縄文のムラ 真脇遺跡
能登の入り江には、縄文時代から人々が定住していた。とりわけ能登町の真脇遺跡(国史跡)は、縄文時代前期(約6000年前)から晩期(約2300年前)まで約4000年間つづいた。キリストが生まれてから現代までの2倍の長さだ。途方もない長寿のムラだったのだ。
イルカが群れる奇跡の土地
2011年11月に復元された「環状木柱列」は、クリの丸太を半分に割った柱が直径10メートルの円状にたてられている。そのわきの真脇遺跡縄文館の出土物のコーナーには、イルカやクマ、ムササビ、アシカなどの骨がならぶ。すべて縄文人が食べたものだ。フグの骨も多い。
「毒で何人も死んだことでしょう。チャレンジャーがいたからフグの卵巣を糠漬けにする能登の食もできたんでしょうね」
14年に見学した際、高田秀樹館長(54)が解説してくれた。
でもなぜ,真脇遺跡だけ4000年もムラがつづいたのか。
富山湾にながれこむ対馬海流の分岐流が、イルカの餌である魚やイカをもたらした。さらに、イルカはふつう浅瀬に近よらないが、真脇では川が富山湾にながれこみ、渓谷のように海底が深くなっているため、海岸近くまでイルカがよってきた。丸木舟をだしておいこみやすかった……。イルカの骨は各地の遺跡ででているが、真脇のように286頭もの骨が出土した例はない。
「ここは海と野山の資源が安定している奇跡の土地だった。たからムラをうごかす必要がなかったんでしょうね」
奇跡の土地だからこそ、この周辺では昭和30年代までイルカ魚がつづいていたのだ。
軸組工法のルーツ
真脇遺跡は1982年に発見された。大量に出土したイルカの骨などが縄文人の食生活をさぐる手がかりになった。
高田さんはこの年、旧能都町の高校に教育実習にきて発掘を手伝い、その後、町役場に就職した。当時の役場は「やっと騒ぎがおわった」というムードで、遺跡は埋めもどされてしまった。だが89年に国史跡に指定され、91年に出土品が重要文化財になった。98年に発掘を再開したらムラのリーダーの墓がみつかってふたたび大騒ぎになった。
高田さんは2014年当時、縄文時代の道具と材料で住居をたてる実験を計画していた。
その計画にあわせたかのように15年1月、縄文晩期初頭(約3000年前)の地層から、先端に突起の「ほぞ」がある角材が出土した。
長さ91センチ、幅16センチ、厚さ7センチで、先端に長さ10センチ、太さ6センチのほぞがあった。アスナロ属の丸太をくさびで扇形に割ったうえで、狂いや亀裂がすくなくなるように石斧(せきふ)で加工したという。
「柱と梁でくみあげる日本伝統の『軸組工法』の出発点といえる。竪穴式住居とはちがう、四角い空間がつくりだされたのではないか」
記者会見で首都大学の山田昌久教授(考古学)は説明した。高田さんは感きわまった表情でマイクにかたった。
「10年に1度の大発見。私の人生にとっても最後の大発見になると思います」
真脇遺跡縄文館は15年から17年まで3年間かけて、縄文時代の道具で竪穴式の「縄文小屋」をたてた。幅5メートル、奥行き6メートル、高さ3・5メートルで、13本の柱でささえている。「ほぞつき角材」の技術で木材を接合し、カラムシの繊維やフジの皮からつくった縄で固定した。
この縄文小屋や環状木柱列は2024年元日の地震で被害をうけなかったのだろうか?
地震は災害ではなかった?
2024年元日を高田さんは能登町内の自宅でむかえた。
夕方、前年とほぼおなじ震度5の地震がおきた。
「ちょっとひどかったなあ」
3、4年前から群発地震がつづき、23年にも震度5強を記録したからおどろかなかった。夕食の準備を再開したとき、ゴーと地鳴りがひびいて、ドスン! と下からつきあげられた。それから経験のない横揺れがおそった。自宅は一部損壊ですんだが蔵は半壊だった。
3日午前7時、高田さんは軽トラックで真脇遺跡にむかうが、道路が寸断され、30分の道のりが3時間半かかった。
山の上の道路から遺跡をながめると、環状木柱列はなにごともなかったかのようにたっている。
道路の陥没やひび割れはめだつが、縄文館も大きな被害はなかった。出土品は、補強具をつけていた国指定の重要文化財は無事だったが、県や町指定文化財の土器30数点が割れた。
能登半島を壊滅においこんだ地震だったが、縄文小屋はどうなったか?
クリとスギの皮の屋根を固定するためにのせていた重さ15キロの石約40個のうち1個だけが落ちた。柱がすこしだけかたむいた。それだけだった。
「かやぶきだから屋根が軽い。ほぞとほぞ穴でくんであるけど、現代のほぞとちがって、ほぞ穴は楕円形でユルユルで、縄でしばって固定している。うまい具合に動いて揺れを吸収してくれた。構造物が現代のようにガジガジでないのがよかったんやろねぇ」
高田さんはそう説明したあとつけくわえた。
「縄文人は火事や水害には弱いけど、地震には強かったんやと思うよ。地震であたふたするのは人間だけ。動物はそのときびっくりするだけやもんね。縄文人は動物といっしょで、びっくりして土器がちょっと割れるかもしれんけど、2,3日もしたらふつうの暮らしにもどってたんでしょう」
縄文人にとって地震は、皆既日食のような神秘的な現象ではあっても「災害」ではなかったのかもしれない。
現代の縄文人たち
5月、縄文小屋をたてた山梨県の「縄文大工」雨宮国広さんとボランティアが1週間かけて、完成以来7年ぶりに縄文小屋の屋根をふきかえた。
まだ奥能登の宿泊施設はほとんど復活していない。のべ100人ほどが、縄文小屋やテントに寝泊まりして作業をつづけた。
ボランティアの多くは雨宮さんにあこがれる「縄文ファン」だ。
「縄文って自然と調和してのんびりしていいですよね」
「裸足って気持ちいいですねぇ」……
生き生きとかたるファンたちに高田さんは水を差す。
「縄文人の暮らしは安定もしてないし、いつ死ぬかわからんようなその日暮らしで、君たちよりいそがしかったと思うよ。……それに、はだしで走ったらけがするがいねー」
でも現代人ばなれした「縄文ファン」の熱さに高田さんは圧倒された。
「若い子もたくさんいて、すごいパワーなんです。最近、考古学ファン以外の人たちが、パワスポとか映画の舞台の聖地巡礼とかできてくれる。遺跡に興味がない人もやってくる遺跡をめざしたいですね」
考古学者もみとめる信仰の拠点
私は民俗学や神話が好きだから、縄文ファンと同様、妄想がふくらんでしまう。
奈良時代、能登の塩は大和朝廷におさめていた。当然、縄文時代にも塩をつくっていただろう。
「ということは、能登のイシル(魚醤)も縄文の味ですか?」
そうたずねると、高田さんは首をふる。
「イカの骨とかが出土したわけじゃないし、証拠がありませんね」
「能登には弘法大師伝説が多いですよね。仏教以前の山岳信仰などと縄文とのつながりはないでしょうか?」
「証拠はありません」
「縄文の信仰と、今とのつながりがみえるものはありますか?」
「ないねぇ。腹のたしにならない出土物は祭祀につかわれたと考えられるから『祭り好き』と言える程度かなぁ」……
考古学者の高田さんは私の妄想を次々に否定した。
その高田さんがなにかに気づいたように環状木柱列の中心にたって、海のほうを指さした。
「奈良時代は線路の土手のあたり、縄文時代はもっと手前まで海でした。ここは海を真正面にみえる場所だったんやね。反対側をふりかえってみて」
180度ふりかえると、木柱の中心に神奈備型の端正な山がある。昔はスギではなくクリなどの落葉広葉樹だったからさらに美しかったろう。
「ここはなんらかの信仰の意味があると私も思いますよ」
遺跡を遺跡にしてはいけない
高田さんはすでに定年退職して再任用で館長をつとめている。真脇遺跡の発掘にかかわって40年を超えるが、発掘は全体の1割も終わっていないという。環状木柱列の目の前の田には、イルカ関連の遺物が埋まっている可能性が高い。
「遺跡はいつも動きがないとわすれられて死んでしまう。たえず掘りつづけないといかん。遺跡を遺跡にしちゃいかんのです」
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