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江戸期の人工河川・鴨川(さいたま市)の桜並木と水門の記憶
どぶ川に巨大な水死体
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さいたま市の実家ちかくの鴨川べりには春、桜がさきみだれる。花びらがぼたん雪のようにまうなか小学校にかよった。花がちって葉がしげると、白い毛をまとったアメリカシロヒトリが大量に発生した。
夏になると、ウシガエルがモーッモーッとひくい声でなく。ヘドロが悪臭をはなつどぶ川で、「マッカチン」とよんでいたアメリカザリガニをスルメをえさに釣った。
農業用水をためるため堰をきずいて川幅をひろげた「関沼」。その水門わきの竹やぶはぼくらの「秘密基地」だった。やぶのなかの小さな空間に水鉄砲などのおもちゃを備蓄していた。
初夏のある日、秘密基地から水門にでると、上流側にふつうのおとなの2倍はある巨大な人間がうかんでいた。
おどろいて、近所のおじさんをよんだ。
「でっかい人が川に浮かんでるよ!」
おじさんは川をみて家にかけこんだ。まもなく、サイレンをならしたパトカーや救急車が到着する。
「子どもははなれなさい!」
ぼくらはその場からおいだされた。警察官はおじさんに話をきいている。
「ひどいよ、ぼくらが第一発見者なのに」
「おじさんに手柄をよこどりされた!」……
ブツブツいいながら秘密基地にもどった。
あれがはじめてみる死体だった。水死体が水をすって膨脹することもはじめてしった。
桜並木はのこり、水門と「役場」はきえた
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この夏、鴨川べりをあるいた。道路は田んぼの農道にいたるまで舗装されたものの、桜並木の風景は40年前とかわらない。人は生まれて死んでいくが、自然はかわらないんだなぁ。
だが、あの水門はきえていた。そのかわり、川のなかに堰堤がつくられ、その上を見ずがながれている。ラバーダムとよばれるゴム引布製起伏堰で、ゴム引布製のチューブに空気や水をいれることで起伏させる堰だ。
図書館で鴨川の歴史をしらべてみた。
実は鴨川は江戸時代に人工的につくられていた。今は西をながれる荒川・入間川は江戸時代はしばしば氾濫していた。その流路を変更することで、古い荒川の河道をながれる鴨川ができた。
鴨川周辺の村々の農業用水を確保するため、沿岸に堤防をきずき、水をためる堰をもうけて「関沼」ができた。
ぼくのすむ地域は「植水村」という独立村だった。全国9868市町村(1953年)が3472(1961年)に整理された昭和の大合併で、植水村は1954年に大宮市と合併した(大宮市は2001年にさいたま市に)。子どものころ本をかりた植水支所の古い木造の建物は1929年にたてられた村役場だった。装飾がりっぱな建物だったが、1988年にとりこわされた。
川べりの桜並木は合併2年前の1952年に植樹された。ぼくが小学校に入学するのは20年後だから、桜の木がもっとも元気なころだった。
高度経済成長で鴨川はよごれ、ヘドロがたまり、農業用水につかえなくなった。
1936年につくられたコンクリート製取水堰を撤去し、そのかわりに農業用水は井戸から供給し、鴨川は排水専用の川にしようと埼玉県は計画した。だが農民たちは反対した。
「井戸だけでは農業用水はまかなえない」
「鴨川の水も利用できるようにしてほしい」
要望をくりかえした結果、コンクリートの堰は撤去し、1992年に現在の空気式の堰が導入された。
下水道が普及したためか、鴨川は以前よりきれいになり、夏でもヘドロ臭はしない。
一見、かわらないようにみえる田舎の環境も変化しているのだ。ただ自然や文化をおおきく毀損するほどではないから、変化じたいも「自然」にかんじられるのだろう。