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山梨の縄文遺跡
岡本太郎や梅原猛の本を読んで以来、縄文の創造性にみせられている。2024年5月、山梨在住の友人に地元の縄文遺跡を案内してもらった。最初にたずねたのは南アルプス市の「ふるさと文化伝承館」だ。
干魃と水害の地
伝承館は入館無料なのに、スタッフのお姉さんがつきっきりで説明してくれる。まずは周辺の地理や環境の紹介から。
御勅使(みだい)川扇状地は、南北約10キロ、東西約7.5キロで、日本でも有数の規模だ。砂礫が100メートルもつもった場所もあり、水はけがよすぎて農地にできなかった。
江戸の町人、徳島兵左衛門が、1667(寛永7)年、釜無川の上円井(韮崎市)から延長17キロの灌漑用水路「徳島堰」を完成させてようやく耕作できるようになった。
一方、扇状地の下の低地は日本有数の水害地だ。田畑にできないから牧場(まきば)になった。そこで馬が飼われ、武田信玄の先祖である甲斐源氏がうまれた。
水害にそなえて多くの家が2階に舟をしばって洪水にそなえていた。
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御勅使川から氾濫した水の勢いをやわらげるための将棋の駒のようなかたちの石垣の堤がもうけられ、御勅使川が釜無川にながれこむ対岸には「信玄堤」とよばれる堤防が500年かけてつくられた。
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妊婦の土偶ラヴィーちゃん
縄文遺跡は、水も得られて洪水にもあわない扇状地の上の山の斜面に点在している。
遺跡からは真正面に富士山がのぞめる。縄文人もその後の人たちも富士山を信仰の対象にしていた。この地域の古墳の中心線は富士山をむいているという。
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旧石器時代は、調理法は焼くかあぶるしかなかったが、縄文土器が出現することで、煮る・蒸すが可能になった。
出土した土器は、下が赤く、上に黒い煤が付着しており、囲炉裏で直接火にかけたことがわかる。
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土器は、複雑な装飾がほどこされている。東北では炎をかたどるものが多いが、山梨は「水煙文」が多い。キラキラかがやくように雲母を混入させたり、漆で彩色をほどこしたものもある。
「命をあたえてくれる土器への深い思い入れがわかりますねぇ」と案内のお姉さん。
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伝承館の最大のお宝は「ラヴィーちゃん」と名づけられた円錐形の土偶だ。妊娠した女性をかたどっている。ふくらんだおなかのまんなかのタテの線は妊娠した際の「正中線」。デベソになっているのもリアルだ。胸は「貧乳ですねー」。
「当時の平均寿命は30代。母子ともに無事にそだつのは50%程度でした。妊婦さんの姿は、安産と豊穣の祈りだったんでしょう」
お姉さんは別の土偶の背中を指さす。
「裏から見ると、よろいのような背中と、くびれたウェスト、かわいいヒップというナイスバディーです。私たちは不二子ちゃんってよんでます」
カオの左右のつくりがことなり、左から見ると憂いをおびていて、右からみるとほほえんでみえる土偶もある。ピカソのような表現力だ。かわいらしいピースサインをする土偶もある。これほど高い表現力があるのに、なぜか指は3本あるいは4本しかない。なんらかの意味があるのだろう。
時代がくだるにつれて、写実的な土偶がだんだん抽象化され、パターン化していく様子もわかる。
お姉さんのトークは、ときおり妄想もまじえてとまることがない。
「土器が下から囲炉裏の炎でてらされたら、上に影がゆらゆらゆれて、神さまか怪物ののように見えたんじゃないかって私は思うんです。そんな調子で、この土偶はこういう意味があると思うんですけど……って(3人の)学芸員さんに言ったら、それはちょっと飛ばしすぎ! って言われるんですよー」
重要文化財に指定されているもの以外は、土器も土偶もガラスケースにいれず、「むきだし展示」されている。見学者がこわしてしまいそうだが、「もともと私らが破片をあつめて修復したんだから、こわれたら修復すればいい」というスタンスなのだという。肝がすわっている。
表情豊かな土偶たち
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笛吹市の釈迦堂遺跡にはりっぱな博物館がある。
中央高速の工事にともなう1980〜81年の発掘調査で、青森県の三内丸山遺跡に次ぐ1116点もの土偶が出土した。土器や石器をふくめ5599点が国の重要文化財に指定されている。
出土した土偶は意図的にバラバラにされていた。欠片はお守りにしたのではないかと推測されている。
ガラスケースにならべられた土偶の表情をながめるだけで楽しい。口を開けて目をまんまるにしておどろいていたり、ホゲーと呆けていたり、怒られてしょんぼりしていたり……。乳房をもつ土偶も多いが、大半は「貧乳」だ。
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イノシシの子も埋葬されており、当時から飼われていたことがわかる。こうやってで家畜のブタになっていったのだ。
刃物として活用された黒曜石は、和田峠や伊豆諸島の神津島のものだ。広い範囲で交流があったのだ。地元産の水晶も石鏃や石錐などにつかわれた。
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カミの抽象化で、土偶も抽象化?
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「埋甕」は亡くなった子をいれて、家の入口付近に埋められた。
佐藤弘夫の「人は死んだらどこへ行けばいいのか 現代の彼岸を歩く」によると、縄文中期以前は、住居にかこまれた広場に遺体を埋葬していた。幼児は住居内に埋葬する例もあった。生者と死者は同じ空間・世界を共有していた。後期になると、生者の世界とは異質な死者の世界が存在することを認識するようになり、墓地が集落からはなされる。
縄文中期まではカミは、カミと認識された対象と一体のものとして把握された。土器もまたカミだから、手をかけて微細な装飾をほどこしたのだろう。
後期になると、個々の事象の背後にある根源のパワーとしてのカミを想定するようになる。カミの抽象化とともに、土偶は次第に抽象的になっていく。弥生時代は、カミは具体的なかたちでは表現されなくなった。だから弥生時代や古墳時代のカミ祀りは、カミを祭祀の場に勧請し、終了後に帰っていただくという形式になった。
男根の石棒
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男根型の石棒も縄文人は信仰の対象にしていた。
五来重によると、こうした石の造形は太古から祖先のシンボルだった。これが路傍の地蔵や塔婆などに変化した。
江戸時代までは、各地にある道祖神には、陽石、陰石がそえられていた。いつしか、祖先であることを忘れて性的な興味の対象となり、明治維新の「淫祠邪教の禁」によって石棒が撤去され、文字碑や石像だけがのこった。
中沢厚によると、山梨には丸石をまつる道祖神が約700カ所もあるが、かつては石棒もまつられていたという。
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縄文から弥生へ 進化なのか退化なのか
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韮崎市の小高い山をのぼると「韮崎市民俗資料館」がある。
資料館のわきには、「花子とアン」でつかわれた古い農家のロケセットや、麓の黒沢川でつかわれていた巨大水車が移築されている。直径4.23メートルの水車は18の臼をそなえ、明治6年から昭和30年まで米の精白につかっていた。
兵庫県の六甲山中の巨大水車群は直径5〜6メートルで、米の精白につかう胴搗の臼を40から130個うごかしていたが、実物の水車はのこっていない。巨大水車の構造を自分の目でみられるのは貴重だ。
資料館は「御朱印籠」や民具もおもしろいが、縄文土器と弥生式土器や土師器を間近でくらべられるのがありがたい。
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あれだけ豊かな装飾をほこった縄文土器が、弥生時代になると遊びや装飾がなくなってしまう。農耕が本格的にはじまって貧富の差がひろがり、いそがしくなる。うすくてシンプルなかたちのほうが、熱が対流しやすく調理時間もみじかくてすむからだ。
合理性を追求するなかで、芸術性や宗教性がうしなわれた。
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ぼくらが子どものころ、合理的な弥生式土器のほうが「うつくしい」と学校でおしえられた。ぼくは縄文式土器のほうがかっこいいと思っていたから、納得できなかった。
おそらく日本では明治以降、弥生式土器のほうが「現代的でうつくしい」とされてきたのだろう。縄文の美を再発見するには、梅原猛や岡本太郎の目をまたなければならなかったのだ。
夕方、標高700メートルの山の上にある「ほったらかし温泉」(山梨市、900円)の湯につかった。雪をいただいた富士山は神々しいほどにうつくしい。縄文人たちも富士山にカミをみたにちがいない。
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