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西国33番・華厳寺 奥の院のヤマビルは山の神のメッセンジャー?

「薬草」「しし鍋」……イベント列車の樽見鉄道

 谷汲山華厳寺は西国三十三所最後の満願の寺である。西国の札所では最東端の岐阜県揖斐川町にある。
 自動車でいくと楽だけど、最寄り駅からあるくという原則にのっとり、大阪から早朝の快速電車にのった。
 大垣で気動車1両の樽見鉄道にのりかえる。
 高校2年のとき、国鉄樽見線だったころにきたことがある。翌年の1984年には第3セクターになったが、住友大阪セメント岐阜工場の製品輸送が2006年になくなると経営難におちいった。その後、フキやヨモギの天ぷら、菜めしなどの「薬草弁当」をあじわえる「薬草列車」や、イノシシを堪能できる「しし鍋列車」などのイベント列車で有名になった。

伝説の「水菓子」マクワウリはプリンスメロンに駆逐された

 新興住宅地が点在するだだっぴろい田園地帯にある北方真桑駅には「信長も好んだマクワウリ発祥地」という看板がたっている。
 ぼくらが子どものころ、メロンといえばプリンスメロンだった。
 坂田種苗(現サカタのタネ)の創設者坂田武雄が、マクワウリと、南欧産の赤肉メロン「シャランテ」をかけあわせてつくった一代交配種で1962年に発売された。
 皇太子(現上皇)の結婚にちなんで「プリンス」と命名されたと記憶していたが、これは事実とことなる俗説らしい。
 新品種をうりだすには、農家が試作したものを市場関係者に評価してもらうが、横浜市中央卸売市場の青果商グループ「プリンス会」が試食したことから名づけられたという。

 プリンスメロン以前は、黄色い皮でラグビーボール形のマクワウリを井戸水や水道水で冷やしてたべていた。メロンほどの甘みはないが、甘いものがない時代、庶民もなんとか入手できる極上の「水菓子」だった。
 マクワウリは東南アジア原産だが、日本には2000年以上前に伝来し、「古事記」や「万葉集」にも登場する。長年「ウリ」といえばマクワウリのことだった。
 ぼくは、物心ついたときにはプリンスメロンがあったからマクワウリは口にしなかった。でも「発祥地」を目にして、もう一度あじわってみたくなった。和歌山産のマクワウリが八百屋にあったから買ってみた。

 歯ざわりはプリンスメロンとウリの中間で、しゃりしゃりしてさわやか。メロンにくらべると甘みはうすいけど、暑い夏にはさっぱりしておいしい。今の果物は柑橘でもメロンでも梨でも糖度が高められているが、マクワウリの自然の甘みを口にすると、甘すぎる果物が不自然におもえてくる。
 マクワウリの甘みがたりないときは、サイコロ状にきって、バターで焼いて砂糖をかけるとおいしい……と以前にきいたが、その必要性はなかった。
 大垣から1時間半で谷汲口駅についた。華厳寺までは4.5キロ、週末は1日4便バスがあり、平日は1時間前に予約すればオンデマンドバスがきてくれるらしいが、あるくことにした。

大正の赤い電車とホームは「標本」に

 ミンミンゼミとツクツクボウシの声がふりそそぎ、稲は頭をたれている。
 20年ほど前、編み笠をかぶってアラブ人のようにタオルを頭にかけて真夏の遍路道をたどった。信仰もないのに、真夏の炎天下をあるきつづけた日々が脳裏にうかぶ。

 40分ほどあるくと「谷汲駅」があらわれた。ホームにはレトロなかわいい電車が2両かざられている。
 この鉄路は1926(大正15)年に開業した。駅舎は1996年にたてかえられたが、ホームは開業当時のままで、保存している電車「モ514」は1926年、「モ755」は1928年に製造された。
 2011年に廃線になったが、「赤い電車をのこそう」と地元が声をあげ、静態保存されることになった。「赤い電車」がのこったのはよいが、うごかない鉄道は命をうしなった昆虫の標本のようだ。ちなみに駅の隣の「昆虫館」も閑散としている。かつては谷汲村という独立村だったが、2005年の6町村合併で揖斐川町になった。合併が「昆虫館」をさびれさせたのかもしれない。
 わき道には栗のいがが無数にころがっている。秋はちかい。

会津にもどる途中、観音像はたちどまった

 県道から右におれると約1キロの華厳寺の参道だ。カエデの並木は紅葉がうつくしかろう。土産物屋や飲食店、仏具店は平日だからかほとんどとじている。
 仁王門の前に富岡屋という飲食店がある。
 平安時代のはじめの798年、会津の豪族、大口大領は京の都で仏師に観音像をつくらせて奥州へはこぼうとした。観音像がみずからあるきだしたが、谷汲についたとき一歩もうごかなくなった。そこで大領は、山中で修行していた豊然(ぶねん)上人とともにお堂をたてて観音像を安置した。するとちかくの岩穴から油がわきだし、燈明にこまることがなかった。大領の子孫がいまも富岡屋をいとなんでいる。「富岡」の名は会津の富岡村(現・福島県美里町)に由来するという。

 仁王門をくぐると、石畳の道の両脇に、石灯籠や小さなお堂がならぶ。石橋で谷川をわたり、長い石段をのぼりきると本堂(観音堂)だ。

 本尊の十一面観音は秘仏だからみられない。100円をはらって地下の「戒壇巡り」をしてみた。一寸先もみえないまっくらな通路を手さぐりですすむ。数珠と錠前をさわってもどってくると極楽浄土へいけるらしい。現世利益には興味ないけど。

 本堂のほか満願堂や笈摺(おいずる)堂をまいる。それぞれ現世・過去世・未来世を意味するらしい。笈摺とは、衣服の背がすれるのをふせぐために巡礼が身につける単(ひとえ)の袖なしのことだ。笈摺堂には、笈摺や杖、編み笠が無数に奉納されている。ちょっと上の斜面にたつ満願堂では33カ寺の巡礼をおえたことを感謝して読経する。
 3つのお堂の御朱印があるから計900円。西国の札所は拝観料をとる寺が多いが、ここでは納経料の収入がおおいから拝観料をとる必要がないようだ。

 満願堂は狸の像にかこまれている。狸版の「見ざる言わざる聞かざる」がユニークだ。三十三所を巡礼した人はほかの人よりぬきんでている、つまり「他抜き(たぬき)」という意味なんだそうだ。

開山上人と山の神が奥の院で融合

 本堂の納経所で奥の院の場所をたずねた。
「往復1時間ほどです。ちょっときついですよ」
 最後の札所の奥の院をまいらないわけにはいかない。
 満願堂に荷物をおいて山道へ。

 東海自然歩道に指定されているが、道はけっこう荒れている。
何度も谷川をわたりかえしながら急坂をのぼる。1番から33番までの観音像をまつった小さなお堂が登山道沿いにたてられている。丁石がわりだ。

 30分ほどで妙法ヶ岳中腹の標高約400メートルの斜面にたつ奥の院についた。
 五来重によると、奥の院やちかくにある洞窟では戦後もこもって修行する行者がいた。山岳寺院では奥の院が開山堂だ。開山さんは仏としてまつられていても「山の神」であり、高野山では、弘法大師と山の神が一体化している。神と一体化するから、弘法大師はさまざまな奇跡をおこすことができたのだ。華厳寺の開祖・豊然上人も山の神になっているのだろう。
 田園をあるいていると、過去の記憶が次々に脳裏にうかぶが、山をのぼりくだりしているときはなにもかんがえない。歩きに集中するから過去の記憶が介入する余地がないのだろう。修験の山は「俗世」をわすれさせてくれる。
 せせらぎでのどをうるおし、顔をあらった。
 これで2年かけた西国巡礼もおわり。さびしいなあ。秋や冬ならさびしさがさらに身にせまったろう。最後が真夏でよかった。

35年ぶりのヒルで流血の惨事

 その夜、宿舎で風呂にはいると、足首からふくらはぎにかけて、血のりのような泥でべったりおおわれている。へばりついた泥をベリベリはがす。ころんだ記憶も泥をかぶった記憶もないのに不思議だ。
 風呂からあがって足をみると血がだらだらとながれている。
 あっ、泥じゃなくて血糊だったんだ。ヒルにやられたんだ!

 1987年にチベットからヒマラヤを越えてネパールにはいるとき、豪雨で寸断された道を3日間あるいた。そのとき、針のように細いヒルが木からおちてきて、シャツの下にはいり、血をすって真っ赤な巨大ナメクジのようにふくらんだ。ヒルをむしりとったら皮膚にヒルの口がのこって血がとまらなくなる。塩でもむか、たばこの火をちかづけておとしてふみつぶした。
 ヒルにくわれたのはあれ以来35年ぶりだ。こうなるとヒルが神仏の使者におもえる。
 35年で人生がひとまわりして、もう一度、あらたな人生を生きろ、輪廻を旅せよということなのか。
 仏さんて、きびしい課題を人におわせるものだな。でも人生そのものが修行だとすると、苦しみや悲しみの経験も課題のひとつとしてある程度は受容できる。
 四国や西国で巡礼をした意味は、そんな発想ができるようになったことにあるのかもしれない。
(未発表の札所の紀行文も、気がむけば今後掲載します)

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