中山道・東から⑤もてると思いこんでいた頭でっかち高校生 旅の原点は漢文の授業
フォークダンス、目が合って「はずかしいですね」
1983年、高校2年の秋、浦和第一女子高校(一女)の文化祭にでかけて、夕方のフォークダンスに参加した。
僕の学校は男子校だから女の子と手をつなぐだけでもあがってしまって心ここにあらず。きょろきょろしても、遠くを見ても不自然だ。視線の置き場に困った。
フォークダンスは曲によって回転方向がかわる。何度も同じ人と踊ることになる。
ちょっと気になった子と何度目かにおどるとき決意した。
「ちゃんと目を見よう!」
勇気をふるって、その子の目を見ると、彼女も僕の目を直視していた。瞳にオレンジ色の夕日が映っていた。
何か声をかけなきゃ、と焦っていたら彼女が口を開いた。
「はずかしいですね」
そう言って目をそらして、もう一度視線を合わせた。
すてきな子だ。かわいい!
それだけで有頂天になった。でも名前も聞けなかった。
2週間後、浦和高校の文化祭の最終日のフォークダンス。
また彼女に会った。
「この前もおどりましたよね」と声をかけると、彼女ははずかしそうに目を伏せた。心臓がバクバクした。今度はなんとか名前と出身中学を聞いた。
「哲子」というやけに古風な名前だ。あとからその中学出身の友人に問いあわせたら、彼女はひとつ年長で、僕の家から1キロの場所に住んでいることがわかった。
手紙を書いた。
「フォークダンスで2度も会って、運命的なものを感じました。すてきな笑顔と鏡のような感性に心が奪われました……」
「あの一瞬、目と目があったときにドキンとして、『はずかしいですね』というあなたの言葉に参ってしまいました」
よく覚えていないけど、たぶんこんな内容だったと思う。これまで読んだ恋愛小説をもとに、考えられるかぎりの文学的な表現を駆使して1週間かけて書いた、つもりだった。これだけ思いをこめればきっとわかってくれる……。
しばらくして白い封筒で達筆の返事がとどいた。
「あなたは自分のなかでつくりあげた理想像を私に投影して好きになっているだけだと思います。本当の私はそんな立派な人間ではありません。私もつい最近、そんな思いをして、相手に幻滅して別れたばかりでした……」
一気に力が抜けた。大人だなぁ……と思った。
でもなぜ僕の「本気」に気づいてくれないんだろう? うまくいかないのは、自分の努力が足りなかったのではないか……と考えた。
裏返すと、十分に努力すればうまくいったはずだと無意識のうちに自信をもっていた。(冒頭の写真は、浦高から古賀まで46キロを走る強歩大会)
教科書は10分割、ノートはわら半紙
高校時代、ロシアやドイツ、フランスの小説をわけがわからないままに乱読した。そのなかで「合理主義」という言葉になぜかはまった。
自分の行動は合理的だろうか? まっさきに考えたのは、分厚くて重い教科書だ。こんな重いものをもって毎日往復するのは非合理的ではないか?
そう思って、教科書をビリビリと10ぐらいのパーツに分割して、その日必要な部分だけもっていくことにした。「もう覚えた」と確信した部分は捨てた。教科ごとに大学ノートを用意するのも非合理的だ。ルーズリーフを導入してみた。でも、見開きで大きな図を描けないのが欠点だ。
そこで、B4のわら半紙を採用した。1つの授業で1枚だから、1日6枚あればよい。それを教科ごとにファイルした。
それを見た同級生は言った。
「おまえは大物になるか、ずっこけるかどっちかだな。どっちにしろ楽しみだから卒業してからもつきあっていこうぜ」
周囲と異なることをしている自負はあった。それが根拠なき自信に結びついていたのかもしれない。
ちなみに「わら半紙」は最近とんと見かけなくなった。
明治初期、木綿の古布やわらを原料に生産された洋紙からはじまり、木材パルプや古紙を原料とするようになった。更紙(ざらがみ)とも呼ばれた。つばをつけてこすれば文字が消え、消しゴムで強くこするとすぐ破れた。ざらざらしていてプリンターでは目詰まりをおこすから、上質紙にとってかわられたようだ。今も売ってはいるが、上質紙の倍以上の値段になっている。
大人になれるのはずっとずっと先だった
さらにはずかしいことに、当時の僕は自分の風貌は平均以上だと思っていた節がある。
アイドル好きの友人に誘われて、中森明菜や早見優らのコンサートに行った。僕はアイドルにはそれほど興味はないけれど、石川秀美はちょっと好きだった。
大宮の百貨店の屋上での無料コンサートで、サイン入りのレコードを買って握手券をもらった。ずうずうしい友人は両手で握手しようとして断られたが、僕がおずおずと片手を差し出すとニコッと笑って両手で握手してくれた。
舞い上がって、おれってけっこうもてるのかも、と思いこんだ。
幸せな、かんちがい。もてたことはもちろん、女の子とデートした経験もないのに。
当時の生徒手帳の顔写真を見ると、頭が大きくて、丸刈りで、ジャージを着ている。
中学時代はじゃがいも型の顔でめがねをかけているから「メガジャガ」とか、頭が大きいから「アタマ」と呼ばれた。高校時代のあだ名はジジくさいからフジイをもじって「おじい」だ。友人たちは「究極のもてない男」ぐらいに僕を評価していたようだ。
努力さえすれば恋人ができるはずだという思いこみも、相手の気持ちを考えない典型的な「お子ちゃま思考」だった。
大人とは、他人の立場をおもんぱかって想像力を働かせられる人のことだ。
外見が十人並み以下の男が女性とつきあえるようになるには「大人」にならなければならない。そのためには他人の話を聞けるようになる必要がある。
「人の話をうけとめるには、自分を捨ててまっさらな心で相手とむきあわなければならない。でも『自分を捨てる』には、確固たる自分をもっていなければならない。だから生涯勉強が必要なんです」
愛媛で農民運動を指導していた稲葉峯男さんが何度も語っていた。
高校時代の自分に会えたらこう説教してやりたい。
「恋人をつくりたいなら、他人の立場でものを考えられるようになるまで、いろいろなことを経験して本を読んで自分の中身をつくりなさい」
漢文素読を教えた先生は元祖バックパッカー
中山道歩きのつもりが、この原稿ではまだ一歩もすすんでいない。とりあえず歩きはじめよう。
浦和の中心には1歳か2歳のころ住んでいた。古い一軒家で犬を飼っていた。
僕のいちばん古い記憶は、夜中に庭に泥棒が侵入し、その影がカーテンごしに見えた光景だった。仮面ライダーの怪人かなにかだと思って、父を揺り起こした。腹巻きにステテコ姿の父が庭に飛び出して追いかけた。
周辺はまだ舗装されていなかった。
調神社から浦和駅前にむかう途中、論語の張り紙を見つけた。また足が止まった。
子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎
「子いわく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや」
すらすらと読める。ついでに次のような漢詩も思いだして思わず口にした。
尋胡隠君 渡水復渡水 看花還看花 春風江上路 不覚到君家
(胡隠君を尋ぬ 水を渡りまた水を渡る 花を看 また花を看る 春風江上の路 覚えず君の家に到る)
漢詩や論語を暗唱できるのは、高校時代の長嶋猛人先生の授業のおかげだ。
江戸時代の寺子屋のように、漢文の授業はまず素読からはじまった。ひたすら音読して覚える。入試で役立つのはもちろんだけど、七五調や五七調のリズムをたたきこまれたおかげで、長い文章を書くのが楽になった。
長嶋先生の授業で素読以上に刺激的だったのがユーラシア大陸横断旅行の体験談だ。
横浜から船でナホトカにわたり、シベリア鉄道で大陸を横断し、東欧諸国をめぐり歩いたという。
「ハンガリーの女の子はノーブラで、上から水をかけたら胸がくっきり見えた」
そう言ってスクリーンに写真を映してくれた、体の線があらわになった女の子の写真に、思春期の高校生は食い入るように見いった。
「おまえらも大学に入ったら海外に行け。共産圏の国を長期間旅してきたら尊敬してやる」
彼のそんな挑発が、僕のその後の旅のきっかけになった。
「仙龍のおばちゃん」の本名
旧中山道とさくら草通りの交差点に「道路元標」が立っている。
道路元標は1919年の道路法施行令で、市町村の道路の起点・終点として設置が義務づけられた。日本橋の日本国道路元標も本来は東京市の道路元標だった。
だが1955(昭和30年)前後の昭和の町村合併で、旧町村の道路元標は不要になり、少しずつ消えていった。浦和の元標も一度は失われ、1982 年にレプリカで復元された。
浦和から約30分、北浦和駅に近い母校の浦和高校に立ち寄った。大盛ごはんで有名だった食堂「丸福」や、こっそり酒を買いにいった「ももき酒店」は建物が新しくなっている。
だけど、2日に一度は通った中華屋「仙龍」はなくなり、新しい住宅ができている。
2020年3月16日未明に発生した火事で全焼し、伊藤みや子さん(88)と、厨房を担当していた弟の工藤松夫さん(73)の遺体が見つかった。
いつもガハハと豪快に笑っていた「仙龍のおばちゃん」の本名を、このニュースではじめて知った。
仙龍は1959年におばちゃんが1人で開業した。浦高生専用の格安「浦高ラーメン」やスタミナラーメン、スタミナカレー(スタカレー)などが定番だった。
文化祭のあとなどは、2階で打ち上げの飲み会をした。教員が見回りに来ても追い返してくれた。教員側も「おばちゃんが見てくれているなら大丈夫だろう」と阿吽の呼吸で黙認したんだろう。
仙龍のおばちゃんの冥福を祈って、中山道の旅の第一幕をしめくくった。
(とりあえず、おわり)