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能登に琵琶湖博物館を

 能登には貴重な文化や習俗があるのに、地元の行政はその価値を軽んじている。輪島市立民俗資料館のとりこわしと6000点の資料の処分(2011年)はその典型だ。(能登のムラは死なないhttps://note.com/fujiiman/n/n3801c7465674?magazine_key=me111971680b4
 「のと里山里海ミュージアム」が2018年に七尾市に開館したけれど、展示内容は七尾市中心で奥能登はカバーしていない。奥能登の自然・歴史・民俗を評価し総合的に発信する場がなければ、震災をきっかけに独自の文化が一気に失われてしまうのではないか。
 ではどんな「場」が必要なのか? ヒントをさがすため20年ぶりに琵琶湖博物館を訪ねた。

象から縄文土器……ボットン便所まで

山の神の人形

 はるか昔、琵琶湖のあたりには、「アケボノ象」という象が闊歩していた。琵琶湖は世界でも20しかない長生きの「古代湖」だ。ふつうの湖は1万年ほどで消えるが、琵琶湖は10万年以上つづいている。ビワマスやホンモロコなどの固有種が約60種も生息しているのも琵琶湖の特徴だ。
 湖底には、縄文時代の遺跡があり、内湖では木器がそのままの形で発見された。漆を塗った弓など、縄文の美意識もかんじられるものも出土している。弥生時代になると、遠く糸魚川からもちこまれたヒスイで玉作りをしていた。
 考古学の時代から歴史学の時代に入ると、集落に信仰の拠点の「お堂」がたてられ、人々は念仏を唱える。山神行事では、二股の木でつくった人形をまつった。年長者が自治をになう惣村の伝統は、神社の宮座という形で今も継承されている。
 ヨシを刈り取り、ヨシズや衝立などとして利用することで、湖の環境が守られ、魚の産卵場になってきた……

ちゃぶ台とカマドがある冨江家

 古民家の「冨江家」をまるごと移築し展示している。昭和のシンボルともいえるちゃぶ台やボットン便所を子どもたちが物珍しそうにさわっている。開館当初は来館者が便所で用を足してしまったこともあったとか。でも今は、ボットン便所経験のある人がいなくなったから、そんなまちがいはおこらなくなったらしい。
 琵琶湖の魚類を目の前で観察できる水族館のような巨大水槽にも子どもが群がっていた。

「琵琶湖は汚い」イメージ汚染

 訪問した日、博物館学芸員をつとめたあと知事になった嘉田由紀子さんの講演があった。以下はその要約と感想。

 琵琶湖には戦後、①食料増産のための内湖の干拓、②琵琶湖総合開発(1972〜97)による琵琶湖のダム化、 ③外来魚貝類の違法搬入(1970年代〜現在)の3つの危機があった。
 1970〜80年代は「琵琶湖は汚い」とだれもが思っていた。子どもたちに琵琶湖の印象をたずねると9割は「汚い」と答えた。
 たしかに、私が中学生のころの琵琶湖の印象は「洗剤で汚染された湖」だった。
 汚染に対して70年代は、下水道などの技術で対応する「近代技術主義」と、ヨシ帯などの自然環境保全を重視する「自然環境保全主義」というアプローチがあった。
 嘉田さんらは、地元生活者の水とのかかわりをたどり、第三者ではなく、住民目線からの環境保全を考える「生活環境主義」という第3の道を提案した。科学的知識と日常的知識の橋渡しをするという立場だった。
 たとえば有人島の沖島には昭和36年まで水道がなく、湖の水をそのまま飲んでいた。だから湖でのおむつ洗いは禁じられていた。ご飯粒などの残飯は小魚に食べさせていた。水害時、あふれた水を田にひきいれる自主的な水害対応をする地域コミュニティもあった。水は生活の場で「循環」していた。

「近い水」をとりもどす

 上下水道が普及すると、水道から下水道へと「水が使い捨て」られるようになった。大河川から取水した「遠い水」にたよることで「近い水」とのつながりをなくし、「人と水との関係性の総体のものがたり」を失った。
 「近い水」を実感できる場として博物館構想が生まれた。生活者が琵琶湖からのイメージをむすべる場、知ることで行動につなげる場、フィールドへの誘いとなる場、科学と生活知の出会いの場、として、1985年に計画がたてられ10年かけてオープンにこぎつけた。
 水辺遊びや、「魚つかみ」体験……などを催している。観察会では魚の名前は教えず、生態を観察したうえで「あなたならどんな名前をつける?」と子どもに名をつけさせる。そうやって「近い水」をかんじてもらう。

博物館から比叡山

 琵琶湖博物館の活動を通して「世界農業遺産(GIAHS)」「日本遺産」に登録され、ダムだけにたよらない流域治水の考えが広まった。もうひとつ嘉田さんは「琵琶湖の魚類図鑑」を成果として強調した。生態の紹介だけでは自然科学に興味がない人は手にとらない。この図鑑は「食べる」ことまで紹介しているという。

能登が学べること

 能登半島地震では、老朽化した上下水道が各地で崩壊し、数カ月はおろか1年たっても水道が復旧していない地区もある。そんななか、消防タンクで川から水をくみ、漁協の水槽の海水や古井戸を活用して水洗便所を維持するなど、生業とともにある農漁村は粘り強さを発揮した。
 一方、21世紀になって水道が通った集落なのに、「水が復旧しないから」と住民がもどってこない例もある。「遠い水」にたよりつづけることによって「近い水」を生かすことができなくなってしまった。
#能登のムラは死なない  では、水も電気もない、無人の集落で「私は縄文の百姓のつもりだから家さえあれば大丈夫」と住みつづけた人を紹介した。冷暖房もない家で暮らしていた移住者の女性は「家は無事だし、湧き水があるし、地震はとくにつらくなかった。昔の暮らしを知ってる年寄りはそうだったと思う。でも私らの年代で電気や水道がなくても平気、というのは移住者だけかもしれんね」と言っていた。
 能登にはまだ、近代以前の生業の知恵や独自の文化がのこっている。だからこそ日本で最初に世界農業遺産(GIAHS)に登録された。それを継承するには「奥能登博物館」が必要だと、琵琶湖博物館で考えさせられた。

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