『君たちはどう生きるか』の話。ネタバレ有感想

『君たちはどう生きるか』の話。

 印象からいうと、私としてはけっこう面白かった。
 中身を知らないで行ったので、思いがけない大当たりだった。

 私のやりたいことを映画でやったな、と思った。私のやりたいこと、やっていいしできるんだな、と思った。
 あるいは宮﨑駿くらいにならないとできないのかな、と思った。普通に考えて面白くはないので、ネームバリューや期待がないと成り立たない表現かもしれない。
 そして、表現者はこれをやったら死ねるな、と思った。わりと全体を通して、宮﨑駿の集大成というつもりで観ていた。

 事前情報は少しだけ持っていた。
 宮﨑駿(宮崎駿)といえば何度もこれで最後って言ってるイメージがあること。そんな中でも、感想からすると今度こそ集大成らしいこと。宮﨑駿の頭の中を描いてるように読めるらしいこと。オタク界隈ではセカイ系としての読みが出ているけどそれは違うらしいこと。鳥人間? みたいなやつは、少なくとも鳥の毛皮を被った斥候みたいな戦士ではないらしいこと。集合体恐怖症にはキツイらしいこと。米津玄師が主題歌で、『ちきゅうぎ』という歌らしいこと。宮﨑駿と米津玄師が一緒に散歩していたらしいこと。どんな歌かは知らずに行った。

 サイレンから始まったんだったかな。他の感想を見て、あーそうだったかもなと思った。
 火事だった。ひとが話してた。お母さんの病院とか言ってた。で、少年がぞわぞわした作画で少年が駆け込んでいく。ジブリってこんな感じだっけ? とジブリ素人は思ってた。

 もうちゃんとした筋は覚えてないけど、戦時中で、母親は亡くなったみたいで、火に駆け込んだ少年はなんか知らんけど無事で、「新しいお母さん」のところに移り住むみたいな感じで始まっていった。
 戦争映画じゃないけど、そういう感じで行くのかなと思った。『火垂るの墓』とかあったしな、と思った。

「え、普通?」と思った。
 戦時中というのはジブリでも何度かやってる気のする題材で、少年に強いキャラクター性も感じなくて、母親が死んで父親が再婚するのもありがちだし、再婚相手との間の子が新しいきょうだいになりそうなのもありふれている。
 何かこう、「物語のイデア」みたいなものが始まろうとしているのか? と冒頭では思っていた。集大成ってイデアってことか? と。ジブリにも宮﨑駿にも思い入れがないから的外れかどうか見当もつかなかった。

「荷物に群がるおばあちゃんたち」で初めて濃い味がした。生々しく気味が悪いというか、厭らしい感じがした。
 戯画化された無相応さというか、古いフィクションの"女"表象を被せられたキャラクターが年寄りでイタいでしょ? って見せられてるみたいな厭らしさ。まあここではそんな安易なものではないでしょ、みたいな気持ちもあったので、ものの喩え。もっと意識的に描かれてるだろうとは思って見ていた。あるいはこれも「ジブリのキャラクター」の何らかのイデアなのかなと。
 というか、まあある種の"境遇"の中にいる人間が歪なのはそりゃそうなので、"境遇"の中にいるひとなんだろうなと思って進んだ。楽しそうなひとたちではあるけどある種のしんどさの中で楽しく生きるように生きてるひとたちかなと思って見た。
「あるとこにはあるんだねぇ」とか「(砂糖)一口舐めさせて」みたいなセリフに、ことさらキャラクターへの厭らしさを感じた。それから、時代を。

 あれ、アオサギが屋根の下飛ぶのが先か。あそこも少しよかったな。鳥が好きなので、鳥が印象的に描かれると印象に残る。
 お、アオサギが描かれたなと思った。

 新しい家で初めて寝たりしてたな。
 時計の音が耳に残った。寝る前と後でテンポが違った? 気のせいかな。
 このへんもなんか、普遍的だなぁと思っていた。静かな映画だな、と思った。

 そっからは記憶があやふや。
 新しい学校に行って、髪型や服の色が周りから浮いてて、帰りに喧嘩して、それでは大してボロボロになりきれなくて自分で傷をつけて帰った。
 え、すごい血だなってなった。描き手の癖なのか、あそこにああやって傷つけるとああなるのがマジなのかわからなくて、受け取り方がイマイチわからなかった。ただ、なんか虐められてるとかじゃなくて傷つきたくて喧嘩もしたのかなと思った。痛みが目的だったのか気を引きたかったのか気を引けないことを期待して自傷したのか……とかここに考察の余地もあるんだろうけど、言ってしまうと、私は最終的にこの映画について「考える」ことにはかなり興味がない感じになった。だから、とりあえずここの意味を考えることは放棄する。
 ともかく、この辺りもなんかありふれてるなと思った。このへんもまだイデアかなと思いながら観ていた。

 看病につくのこのおばあちゃんなんだ、と思った。
 どのおばあちゃんでも思っただろうけど、何人もいるうちのひとりが役割を担うことで、このおばあちゃんは特別なひとりになったな、と思った。ここでピックアップされるのはどういう役回りを意味して、こういうひとりだけのピックアップをこっからどれだけやるのかな〜と思った。

『君たちはどう生きるか』の本が出てきたのはどこだっけ。あれが出てきて、ああ本はそう位置付けなのねと思った。
 元の本を読んでいないので、それ以上はわからなかった。読んでおけばあの本の位置付け、それを贈る意味、あの本と少年が築く関係とかも読み取れるんだろうなと思って、ちょっと惜しかった。

 そんな中、アオサギにちょっとワクワクしてた。アオサギはしつこいけど、少年はなかなか誘いに乗ったりしない。このまま「誘惑を断ち切る話」をされてもいいぞと思っていたので、話がどう転ぶかわからなくてワクワクしていた。特にそわぞわしたシーンを乗り切ったあたりで、え、マジでこのまんま何も起こらないのアリか? と思っていた。

 あとはアオサギとの間の幻想はマジなのか、とか。
 少年の話なので、少年期の精神性の表現だとしてもおかしくないしな〜と思ってた。まあ木刀がボロボロしたあたりでそうじゃないっぽいな? とはなるんだけど。
 ただ、こうやって幻想の要素が目立ってくると、少年の精神的過渡期の話なのかな〜という印象が強まってきた。

 塔に入ろうとしたあたりで、お、冒険の話か? となってきた。流石に入れないで終わるとは思えなかったので。
 そうなってくるとまた物語として模範的で、いわゆる「行きて帰し物語」の系譜だなと思う。セオリー通りすぎて、じゃあそっち系の物語のイデアをやるのか? と思い始めた。
 現実と空想の境界がまだ曖昧な少年が異界に行って、体験や冒険を経て以前より変化(成長)して元の場所に戻ってくる、みたいな物語の型。定義としては適切ではないけれど、大事なのはこれが少年の発達に通じているということ。拠点から離れて冒険して、学び取って成長して拠点に帰ってきて、を繰り返すことが成長なら、「行きて帰し物語」は成長のメタファーたる物語なのだ、と思う。たぶん。ジブリなら『千と千尋の神隠し』とかまさにその系譜だろうな。『となりのトトロ』もそう?(あんまり観てないからわかんない。けど、割とありそうだなというイメージは、この作品を集大成のように思わせるには十分だ) 最近読んだ本だと『クラバート』とか。
 だから少年の「行きて帰し物語」に見えたなら、ああ、少年の成長を描く物語なんだろうな、と身構えられる。あとはどんな成長をするのかが、作品の色ということになる。

 ただ、一度は引き止められる。え、引き止められるの? と思った。
 しかもああいう形で塔にリベンジするわけじゃないときた。新しいお母さんが失踪して、捜索になる。でも少年は見ていて、森の奥に探しに行こうとする。タバコのおばあちゃんは引きとめようとするんだけど、結局ついていくことになる。今度はこのおばあちゃんがスポットか、と思う。

 そしてアオサギに案内されて館の中へ。
 こっからがこの映画の本番——というか本領というか。溶けてなくなる母の像、弱体するサギ男、沈む床。
 偽物の母について出来の話をしていたり、サギ男の中身が顕になったり、この辺はなんだか魔法の話なのかなと思っていた。

 そして落ちた世界が、すごく観念的だ。
 いきなり出てくる墓、「ワレヲ学ブモノハ死ス」、禁忌と促すペリカン、火花の出る鞭(?)、わけもわからず倣わされる儀式。抽象的だなと思ったけど、これは考察するやつなのかなと思った。
 羽を持っているとペリカンに食われないけど、その弓矢は海で失う。急に安全じゃなくなったな、と思う。
 生きているやつと死んでいるやつ、殺生の出来ない種族、なんか小さくてかわいいやつ、魚を捌くのを任される。魚を捌くのは成長の儀式なのかなと思った。『行きて帰し物語』として見ていたので。異文化と関係を持ったり、殺生を経験したりすることを成長だと言っているのかなと。うるせえな、と思った。
 はらわたはなんか小さくてかわいいやつが飛ぶためのエネルギーらしい。墓の儀式とか、殺生できない族とか、飛ぶための必須エネルギーとか、情報がどんどん出されて、これはもうなんかそういうものだと思えっていう世界観なのかなと思えてきたので、これを考えるのもやめ始めた。
 上で人間になる小さくてかわいいやつ、それを襲うペリカン、を追い払う花火人間、満身創痍のペリカンの語り。そうせざるを得ない、で生きているものたちがいるというのはそうだよなと思った。一番説明的で露骨なシーンだった。

 それからいよいよ旅に出ていく。人を食うインコ。火のやつがなんか出てきて助けられる。同行者が急に変わって、流れ変わったなと思う。
 インコを掻い潜りながら、新しいお母さんの元へ向かおうとする。
 たくさんのドアがある廊下を経て、産屋に行く。産屋にそのひとが臥している。助けようとするも拒絶され、白いヒラヒラに激しく分断される。

 で、ここだったかな。初めてビリビリする白い通路が出てきたのは。
 なんか、ここでテンションが上がってきた。スゲーーーー幾何学的で、抽象的で、映像だった。こっちの世界冒頭の「そういうもん」感も経ていたおかげで、いよいよ「この映画はもう考えないで観るぞ!!」というスタンスがピークになってきた。
 表現者の空想世界を「そういうもん」と突きつけられる体験はたまらなく楽しかった。シネコンで金払ってこんなもの観ていいの!? って思った。

 役割を継いでほしいという大叔父を見て、あ、これは役割の話なのか、と思った。
 新しいお母さんが産屋で子を産もうとしているのも役割だ。あの一族の子が生まれることを求められているんだ。母体が、生まれてくる子がそれを求められるのって、すごいグロテスクなことだと思う。それをまあグロテスクなつもりで書いているっぽいのを感じ取って、わかってて書いてるっぽいなと思った。
 グロテスクと向き合って、これはグロテスクだよって言ってくれている表現のことは好きだ。少年が後継を求められているのも、グロテスクだ。

 目覚めるとインコに捕まってた。そりゃそうだよな。
 サギ男の助けを受けながら、ヒミ様? だっけ? を助けにいく流れになる。このへんからインコが「襲ってくる獣」なのか「社会」なのかわからなくなってくる。インコ避けてたのって食われるからじゃなかったの? ヒミ様、捕まったままなの? ってちょっと混乱してた。

 インコの王様が通路を切り落とすシーンは結構好き。すごい徹底的にやってて好感が持てた。ああいうのは「残った通路の影にしがみついて耐えました」みたいな展開ご都合すぎて好きじゃないので。

 それからインコの王様が大叔父と会って話をしたり、少年たちがまたあの幾何学の道に戻ってきたり、インコの王様が少年たちを尾けたり(あれ? なんでこいつがまた後ろに回ってるんだ?)して、少年はもう一度大叔父と対面する。

 断ったのがすごくよかった。
 私はこれを、「世界の命運なんか背負うべきじゃない」というメッセージだと思った。それは正しくて、好きだった。「どんな役割か」「断って帰った世界に何があるか」とかはあんまり意識しなかった。「少年は後を継ぐのかどうか」、それこそが『君たちはどう生きるか』の問いであって(あるいは「どう生きるか」とは積み木の積み方の問いなのだけれど、その問いの土俵そのものに上がらないと回答するのがこの映画のアンサーで)、それ以外はその問いの提示に至るための筋書きでしかないのだと思って観ていた(これは流石に極端だと思う)。そのうえで、役割なんてクソくらえだってアンサーを出してくれたことにすごく安心した。
 なんかそのあとインコの王様が来てめちゃくちゃにして急いで脱出しなきゃいけなくなるのはよくわかんないというか急に畳に来たなって感じがしたけど、その時にはもうこれを「124分でこのたったひとつの問いを投げかける映画だ」と思っていたので、展開なんてどうでもよく思えた。

 そういうわけで、最終的にこの映画は私にとっては面白かった。

 第一に、この映画は表現者の頭の中だ。シナリオとか展開とか感動とか感情移入とかそういうものをすっ飛ばして、観念的なものをかなり剥き出しにして並べてくれていると思った。下の世界に入ってからはだんだん幾何学映画だと思い始めていた。
 これをやっていいんだ、と思えて嬉しかった。あるいは、宮﨑駿くらいにならないとこの作品の作り方は許されないのかなと思った。

 今、私のやりたいことは「風景画みたいな小説を書く」ことだ。
 シナリオとか、展開とか、キャラクターとか、謎とか、どんでん返しとか、あるいは言葉の妙とか、そういう「面白い」ものを全部かなぐり捨てて美しいと思う情景をひたすら描いて、あるいは並べて美しいものへの讃歌を描くのが今の私の理想だ。あるいは、ほかの表現者の思う美しさも、こうやって享受したいと思う。
『君たちはどう生きるか』は、(映画作品といえ)これを本当にやってのけた作品だ、と私には感じられた。だからめちゃくちゃ面白かった。

 それから、テーマの面から言えば「役割のグロテスクさ」を謳ってくれたのがよかった。
 世界の命運なんか背負うべきじゃないし、役割なんか継ぐべきじゃないし、役割に殉じるのは恐ろしいし、役割のために生まれるなんてあってはいけない。
 現代の物語への反駁でもあり、家族の中の母、家族の中の子という概念へのクリティシズムでもあると思う。あるいは、『君たちはどう生きるか』は役割だけを描いていて、私がそう受け取っただけ。私が「君たちはこう生きるな」と思っただけ。

 あるひとはこれを現世讃歌だと言った。
 少年のした決断は、「役割を継がない」「世界の命運を背負ったりしない」というものであると同時に、「理想郷に残るのではなく現実に帰って生きていく」というものでもある。私は前者を感じ取って正しいと思ったけど、後者の観点を提示されたら私もうるせぇ、クソくらえと思う。
 あるひとが1度見て、個人的に抱く感想は、少年の選択の意味をどちらで捉えるかで大きく変わるだろうな、と思った。見方を変えると、同じひとでも合う、合わないが変わることもありえるかもしれない。

 私の感想はこんなところ。
 本気で考察に乗っかるつもりも、気力もない。今の印象を大切にすることを、とりあえず忘れたくないな。

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