読書は誰かと分け合えない
店番暇なのでRTAinJAPANを見たりしている(最低)のだけど、アーカイブだから面白さがちょっと微妙で、とりあえず甲子園を見ている(やはり最低)。
アーカイブとLIVEってなんでこんなに違うんだ。どっちにしたってパソコンで眺めているのには変わりないのに。
なんでかを考えると、多分コメントのあるなしが大切なんだろうなと思う。僕は95年生まれだからおもしろFLASH倉庫出身、ニコニコ動画育ちで、そうなるとコメントの文化がやっぱり一番面白い。
だからyoutubeでもtwitchでもコメントが流れてくれるのが楽しい。一緒にコメントすることで、例え見ているのが自室で、一人であってもインターネットを通じて多くの人と繋がれる。
RTAinJAPANもリアルタイムで見れたらよかったのだけど、今年は見たいゲームがあんまりなかったこともありアーカイブで見ることにした。マリオオデッセイは未プレイだけど何が起きてるのか見ててわかりやすいから面白かったね。でもその面白さもわりと、みたいな感じだった。
これがもしリアルタイムで見てたらコメント見たり書いたりできて楽しいんだろうけど、やっぱアーカイブは比べて孤独な感じがしちゃって、そうするとなんか乗り切れないね。
何事も生の体験というのが大切なのだな、と思う。音楽でも演劇でもアートでもお笑いでもなんでも、多分生で見た方が全然いいのだ。その空間が持つ空気というのは絶対にあり、そしてそれもその芸術の本質のひとつであるのだから。絶景だって写真で見るのと現地で見るのとでは全く違う。
と、なると気になるのが本という存在である。この流れで行くと物理書籍には今言ったような生の部分があると思うのだが、実際のところはそうでも無いんじゃないだろうか。
多分電子で読んでも良い本は良いし、それに紙の本が果たして生のものなのかと言われるとちょっと悩むところでもある。ゲラとか(あるなら)直筆原稿の方が生じゃない?でもそんなもの造り手側か研究者か、それか熱心なファンくらいしか読まない。そして彼らは皆紙の本に感銘を受けているはずだ。
僕が思う、電子と紙がそこまで違わない理由の根っこのところは、結局読書という体験が孤独なものだからといういつもの結論だ。
最初に言った空間に生の良さがあるものは、その時間、場所を誰かと共有しているからというものがある。だけど本にはそれがない。
誰かと一緒に本を読むことはできない。なぜなら読むペースは人それぞれだから。
映画や音楽は能動的に楽しむものだ。ひとつの映画が始まってから終わるまでの時間は誰にとっても一定であるからこそ一緒に楽しむことができる。だが、一冊の本を複数人で同時に読むことは難しい。誰かと本を共有する時は必ず読んだ後なのだ。
誰かと時を共有するということに生の要素がある。そして本はそれができない。しかしこれは決して欠点ではない。誰かと空間を共有できなくても面白さの本質が損なわれることはないからだ。