孤独な芸術家たち
依然として咳が出る。煙草を一旦やめれば早々に止まるだろうと思うが、思うことと実際に吸わないでいることは別問題である。
対して暑くないが湿度が高くエアコンを入れざるを得ない。しかしそうすると寒く、扇風機が欲しいと思う。遠くで小さくミンミンゼミが鳴いていて、今年始めて、ちゃんとした夏の訪れを感じる。
暇で仕方がなく、蔵書をひっくり返して読みたい本を探す。こういうときばかりは、阿呆のように本を買っていた学生時代を良かったと思う。しかし小説を読む気にならず、かと言ってあまり面白いエッセイを持っているわけでもなくて、何を読もうか迷ってしまった。結局太宰への追悼文集というよくわからない本を読むことにする。
読んでいるとどいつもこいつも、彼の死を強く実感していたようである。それは彼の生活をよく知る者も、作品でしか彼のことを知らない者も同じであったようだ。近い友人たちも、彼は日頃に自死を予感させるような素振りはあまり見せなかったが、しかしそれは演技であること自体は見抜いていたようである。笑顔の下で苦悩の表情を浮かべているのはわかったらしい。
誰と何をしていても埋まらない孤独というのはある。誰かと一緒にいる時間は楽しいし、一人で本を読んだりゲームをしたり、そういう時は孤独は身を潜めているのだけど、帰り道や一旦そこから離れた瞬間に孤独はまた顔を出す。
しかしこの孤独はそこまで嫌なものでもない。もちろんこの孤独という悪魔のようなものの存在はマイナスでしかなく、自分に悪影響を及ぼしていることはわかるのだが、一人になると僕を孤独にしないように孤独がやってくるとでも言おうか、本当に最後の最後に残る友達という感じである。こいつと決別したいと思うし、しかしそれはどうやったって無理なのだろうという諦めもある。
先日久しぶりに『グリーンブック』を観て以来ずっとドン・シャーリーのピアノを聴き続けているのだが、とても素晴らしいピアニストだなと思う。幼少期よりクラシックに親しむも、黒人クラシックピアニストなんて存在は当時は彼くらいのもので、その後ポピュラー音楽に移るも、それはそれで己の孤独感を深めていくばかりであったようだ。
音楽的にはセロニアス・モンクと同じでクラシックにルーツがあるからだろうか、由緒正しさと彼らにしか出せないブラック・ミュージックの雰囲気が混ざり合い独特のブルースがあってとても心地良い。僕はどうやら、こういう相反する二つの要素を持った音楽が好きなようで、ジャニスを愛してしまうのも当然であるな、と自分事ながら思う。
ジャニスもドン・シャーリーもとても孤独を感じていたようだ。もちろん伝え聞いたことであり、誰かが書いたことの受け売りであり、脚色された映画の話からの印象でしか無いが、しかし彼らの音楽からはどうしようもない叫びのようなものを感じる。そのどうしようもなさは時代という個人にはどうにもできないものからやってくるものであったり、そもそもそういう星の下に生まれてしまったとしか言いようのない、周りがあれこれ言ってどうにかなるようなものでも無いと僕は思う。
そういうものを抱えた人間がいたのだという事実。それが僕に寄り添っている気がする。振り払おうにも振り払えないどうしようもなさ。本や音楽にはそれを分け合う力があるのだな、と思う。孤独を癒やしそれ自体を無くしてしまうのではなく、鑑賞者に孤独を受け入れさせる力。そういうものがあるのだと思う。
だから僕は別に本も音楽もそこまでいいものではないと思う。孤独というのは基本的には無いほうがよいし、それらを無いものとする力を本屋音楽は持っていない。あるのはその孤独を受け入れさせる力だけだ。だからこの力を必要としない、つまり孤独でない人間は無理して本を読む必要はない。無理して音楽を聴く必要もない。そのままの人生を歩んでいけばいい。
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