ルッキズムとはどこから来たのか
かつて、男性中心に巻き起こっていた〈能力不足=努力不足〉という価値観の蔓延が問題視されてたように、整形や美容(化粧・ダイエットなど)という「美しくなること」は努力可能なものとして扱われ〈不細工・汚い=努力不足〉という価値観が女性中心に蔓延されて、問題視されている。
上記のnote・postの内容はそこから逃れるような価値観「努力したってしょうがないから人生楽しもう」(享楽主義)が、ルッキズムの名のもと批判されている。すなわち、逃れられない点を主張している。
では、そもそも“ルッキズム”とは何か?
日本にはいつからこの言葉が使用されて
どのような問題として
取り上げられてきたのか確認する。
検討・話し合うための土台をつくることが
本稿の目的になる。
Q.ルッキズムとは何か?
「lookism」という言葉は
そもそもいつから生まれたのだろうか?
ルッキズム研究者の西倉実季によると、
はじまりは
1978年『ワシントン・ポスト・マガジン』だ。
その後、2000年に『オ ックスフォード英語辞典』『アメリカン・ヘリテージ英語辞典』に「lookism」という言葉が「外見にもとづく差別または偏見」として取り扱われるようになる。
しかし、当時のルッキズム研究対象は
主に労働者の分配問題が関係している。
つまり、ルッキズムとは「個人の価値観」という意味合いより、社会抗議や「雇用の機会均等に強くかかわる概念」として用いられる言葉である。
Q.ルッキズムが注目を集めたのはいつ
そもそも日本では
いつから注目されるようになったのだろうか?
日本では2020年の6月に大きな注目があったことがきっかけにそこから右肩上がりで浸透してることが確認できる。
ちなみに2020年の6月に起こった出来事とは
「世界で最も美しい顔100人」にノミネートされた水原希子が美のコンテスト企画に異議を唱えたことで注目を集めた。
そういう意味で日本が浸透したきっかけと
海外(アメリカ)で浸透したキッカケに違いがある。
実際、日本は労働者的な観点でルッキズムが
話される機会は少ないように思われる。
また、024年1月に急上昇した原因は
政治家の麻生太郎の発言が
物議を交わしたことで再注目された。
Q.ルッキズムの何が差別なのか?
ルッキズムは「外見による差別」である。
差別は問題だからルッキズムも問題である。
このような建付けはおおよそ同意するだろう。
しかし
そのような差別はどのような問題なのか?
ルッキズムによって変化したこと
日本は「ルッキズム」に対して「ミスコン」という文化に大きく影響を与えるようになる。例えば、上智大学の「ソフィアンズコンテスト」は審査基準を外見重視から内面や個性も含めた総合的な判断に審査基準変更するようになる。
しかし、ここで注目する点は発表時(2020年4月)は「ルッキズム」という言葉が用いられてるわけではなく、どちらかといえば「ジェンダー問題」「フェミニスト問題」が深く結びつけられていることが確認される。その後も他大学のミスコンや外見に関する企画の変更・廃止。ミスコンに外見を晒さない出場者が出るなど、様々な議論が生まれるようになる。
内面に順位付けすることの是非は問わないのか?
日本ではこのように「人を外見で判断してはいけない」=「ルッキズム」という意味で扱われる。しかし、西倉によると英米の実証研究を調べたところルッキズムの意味使用がそれらと異なることを繰り返し述べている。
改めてミスコンの問題を整理しよう。
なぜ外見中心で判断してはいけないのか?
一般的な日本のルッキズム批判の建付けは
水原希子やソフィアンズコンテストの改定もどちらかといえば美の多様性を尊重しようとする②の立場であり、これは参加者の条件の多様化(性自認で参加が認められる)なども含まれる。また、日本は古くから「人を見た目で判断するな」という教訓や訓話は作品や道徳の授業で広く扱われており、①のような文脈でルッキズムが扱われることもある。重なる部分もあるが麻生太郎の発言など、そもそも「人の見た目を評価して公言するな」みたいな規範性も根強くある。
このように日本では美の主観性や規範性に
異議を投げる文脈でルッキズム問題を扱うことが多い。
では、英米の実証研究はどこを対象にしているのか
先ほどジェンダー問題と結びついているという話にもあったように、ルッキズムの問題とは外見が他の性質と深く結びついているという問題である。具体的には、性差別、年齢差別、障害差別・人種差別と分かちがたく結びついており、それゆえにルッキズムは差別問題として取り上げられる。差別の顕在化という視点で〈ルッキズム=指標〉に扱われているということだ。
このような視点で見た場合、従来よりも内面を重視するよう審査基準に変更を加えただけでは、ミスコンやそれに類するコンテストが孕む問題をすべて克服したことにはならないという部分が確認できる。
Q.何がルッキズムを問題するのか?
日本と英米のルッキズムの問題となる建付けを確認した。だから、日本の意味は間違っているという話ではなく、ルッキズムの問題を日本とは別の角度で深堀り・整理していく。
ここでは西倉の論文をもとに
ルッキズムの問題を以下の3つに分類する
注目する点は冒頭で述べたように
主に労働に関わる問題として取り上げられている点である。
①無関係論
無関係論とは…本来は外見が評価されるべきでない場面で評価されていることを問題にする議論である。例えば接客ではなくエンジニアなど、仕事の機能的に見た目が重要ではないにも関わらず、採用時に差が生じることである。
このような「機能的に関係ない場合」という区分けをする場合、ミスコンは肯定的に扱われることになる。一方で警察官の身長制限に1cm足りない場合は仕事における機能に差がないためそのような採用基準は否定的に扱われる。また、接客業だとしても評価基準に対して外見だけ突出されてる基準となってる場合は問題として扱われる。
しかし、このような
“機能性”の対象・有効範囲は難しい。
例えば見た目がいい人が職場にいることで社員にいい影響を与えて生産性が上がることが期待できる。よって、選別する際に外見を用いることは可能であるし、顧客の需要も含めるなら利益の最大化という点で見た目による選別は否定できないだろう。
②美の不均衡論
美の不均衡論とは…社会的に評価される外見の美しさが社会的カテゴリーによって不均衡に配分されていることを問題にしている議論である。この議論に入る前に前提となる話「美は社会的構築物である」という部分を確認しよう。
『美貌の経済学』によれば外見の良し悪しで収入が変わることが確認されている。また、①の後半で述べた通り美貌は企業の売り上げにも貢献されるため雇用主にもいい影響を与える。つまり、先ほどの話は既に経済学的な調査として一つの事実(美貌は企業利益に貢献する)としてあるということだ。
重要なのはここからで
このような美容を一つの資本としてみなす場合、芸能界やコンテストなどの選別とは別の労働市場にもいい影響を与える。更に外見的資本は生得的ではなく「努力によって変わるもの」と捉えている点がある。これらの実感を通して美をより良い見返りを得るための「個人的な投資戦略」とみなすことが企業や共同体(家族含む)や個人の選択として生じるということになる。
しかし
私たちの社会では他の種類の資本と同様、美という資本は人種や階級、ジェンダーなどの社会的カテゴリーによって不均衡に配分されている。更に人種的な特徴を美容整形から廃する動きでスティグマ化は生じていて、「良い外見」獲得には人種的な差が生じている。更に「良い外見」に健常性、階級性と結びついてるなら投資しても回収できない事態も生じる。このような差を努力不足という一元化で割り切ることは問題ないのだろうか。
更に美の投資戦略は
社会的に無視できない部分がある。
正常な加齢現象を「異常」「醜いもの」と分類する美容やマスメディアによって美しくならねばと思わせるような誇大広告、それのよってリスクを伴う美容整形に駆り立てられる。
魅力的な外見であることで有利になり、反対にそうではないことで不利益を被る事実がある以上、人が自分の外見に関心を払うのも仕方ない状況である。しかし、それには金銭や時間の差だけではなく、生得的や人種や健常性による差。その差を埋めるために、ダイエットや美容整形などで健康面でのリスクを負うほか、外見にまつわる不安から摂食障害やうつなどの心理的問題を抱える場合もある。魅力的でなければならないという圧力は男性よりも女性に対して強く、さらに「美しさのイメージにはいまだに人種的特権の伝承が反映されている」ために、支払う「代償」は社会的マイノリティにおいてより大きいというのもこれまた明らかな事実である。
美の不均衡論はこのように、ルッキズムが人種、階級、ジェンダーなどにもとづく他の差別と重なり合っていることに着目して美を脱個人化するという点で、経済主義的見方を退けている。社会的カテゴリーによって人々の間にはそもそも初期資本に違いがあり、投資をしてリターンを得るためのコストも異なることを考慮するならば、男性よりも女性が、女性内部でも社会的マイノリティが、ルッキズムが浸透した社会においてより構造的な不利益を被るという問題は一律・一元的に扱うべきではないだろう。
③美的労働論
美的労働論とは…労働市場において評価される外見が美的労働を通じて組織的に構築されるなかで格差が生じることを問題にしている議論である。要するに、サービス産業における企業間の競争が激化するなか、雇用者は自身の身体を通じて顧客の感覚に訴えることができる労働者を求めている。企業イメージやブランドの個性を身体で体現し、顧客にアピールすることを職務の要素とするこうした労働は、イギリスの労働問題研究者でによって「美的労働」と名づけられた。
外見の良い労働者を雇いたいという雇用者の意向は①で述べたり、特別新しいものではない。しかし、美的労働は労働者の身体が組織的な統制・管理の対象となる点で区別される。雇用者は、同業他社との競争で有利になるために、募集、選抜、訓練、モニタリング、報奨のプロセスを通じて労働者の身体、体重やサイズ、服装や化粧や髪形、立ち居ふるまいや姿勢、言葉づかいやアクセントなど開発して利用するのである。このように、美的労働においては【企業イメージの身体化】が求められるため、労働者が採用されるには企業の容姿規定に適合しなければならない。採用後も、労働者の身体は研修などを通じて雇用者の監視下に置かれる。
英米の実証研究によれば、雇用者が労働者に要請するのは階級の文化資本や既存のジェンダー規範に適合的で「民族色が強過ぎない」外見であるという調査結果がある。すなわち、美的労働が重要な位置を占める社会では、労働者階級の出身者や人種的マイノリティ、支配的なジェンダー規範とは合致しない外見の人々が雇用を確保し維持するうえで不利な状況に置かれることになる。
美的労働に関する従業員格差とは異なる
以下3つの倫理的問題を挙げておこう
A.企業倫理
外見という他者に譲渡しえないものを雇用者の利益追求で改造(広義的な意味で)して、統制・管理の対象とされていると考えた場合、そこには個人の尊厳に関わる可能性がある。
B.雇用者倫理
経済効率や社会全体の生産性の観点から、雇用者のそうした意向は正当化されるという見方もある。しかし、個人の尊厳の毀損が引き起こされるという問題に注目するならば、この意向を必ずしも無配慮に正当化できるのかは検討を要する。
C.消費者倫理
消費者が好みの外見の従業員がいる店で消費することは個人の自由であり、また消費者は労働者に対して強大な権力を持っているわけではないため、その行動を制限することは困難だといえる。しかし、この場合、従業員の外見を無造作に選り好みしての消費行動は放置されることになり、そこを検討しなければ結局、従業員格差も温存されたままになる。
おわり
ルッキズムに関する話し合いや
検討するための土台となるように
ルッキズムという概念を整理して、実際に日本と英米圏それぞれにどのような問題が検討や議論されているのか確認した。「ルッキズム」という言葉の意味の差異を確認することは大切である。
しかし、そこに留まるのではなく
その過程を通して従来とは別の切り口で検討や
話し合う機会に繋がることを期待する
最後に更なる検討の方向性として2点あげておく。
1.
一般社会において「ルッキズム」の用語によって問題化されようとしている現象の分析は必要だろう。たとえ学術的な意味使用とズレていたとしても、人々が「ルッキズム」という言葉によって指し示そうとしている現実は存在するのであり、重要なのはその現実に向き合い・把握することである。
2.
ルッキズムと人種、階級、ジェンダーなどにもとづくその他の差別との関係の更なる検討である。先行する多くの議論において、ルッキズムとその他の差別との重なり合う関係が確認できた。では、ルッキズムは結局のところこれらの差別に還元するのか。仮に還元できないルッキズム独自の問題がるならそれはなんだろうか。
こうした更なる検討は今後も大切だろう。
私もこれを一つの土台にして更なる加筆・修正を
加えていきながら皆様と話していく予定だ。
話し合いや質問や情報交換の場として
こちらのコミュニティもあるので
興味ある方はぜひ、参加してください。