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家の中で「好き」を公言できることの重要性
3年ほど前に別居を始め、今は離婚協議をしていますが、ありがたいことに子どもたち2人は大きく荒れることなく育ってくれています。(上の子は繊細で、思考パターン的に少し生きにくそうなところもあるけれど。)
子どもの1年は長いし、別居当時と今では子どもたちの精神年齢が全然違うことは大前提だとして、それでも、別居する前より今の方が、子どもたちは自由にのびのびと暮らしているように見えます。
私は、これが、とても嬉しい。
「家」が、安心して過ごせる場所になっていて、嬉しいです。
そんなことを、ふと感じたので、今日は少し昔のことを振り返ってみようと思います。
親の顔色をうかがう子どもたち
別居する前、子どもたちは明らかに親の顔色をうかがっていました。父親の不機嫌を気にしていたのもありますが、私の顔色(機嫌)も、うかがわれていたと思います。
当時は自分で気づけなかったけれど、別居してから子どもたちの様子が少しずつ変化していって、それを見て、子どもたちに相当気を遣わせていたことに気づくことができました。時間は取り戻せないですが、早いうちに別居を決断できて良かったと思っています。
私が一番反省しているのは、夫の不機嫌を誘発しないために、子どもたちの生活を制限していたことです。朝は時間通りに準備を進めることや、夕飯をスピーディーに済ますことや、お風呂の順番、寝る時間など、細かなことをなるべくスムーズに進めようと子どもたちを誘導していました。
「誘導」という言葉が、ぴったり当てはまると思います。
声を荒げて「あれしろ」「これしろ」とは言わないようにしていたし、「◯◯しなかったら△△だよ」みたいに交換条件を出すこともしなかったけれど、私の言動には明らかに圧があったと思います。
子どもたちが自由にのびのびと生活することよりも、夫に機嫌よくいてもらうことを優先していました。
そして当時は、それが「正解」だと思っていました。自分が傷つきたくないという保身を正当化していただけなんだと思います。
「好き」が全肯定されない
これも別居してからちゃんと認識できたことですが、夫は、家族の誰かが「これいいよね」とか「あれが好き」と言ったときに、肯定をしない人でした。そして、「俺がすごいと思わなければ褒められない」と言い、子どもの成長を褒めない(喜ばない)人でした。
夫なりに「良い父親」でいようとしていたと思うし、子どもたちを馬鹿にするような言動はさすがになかったけれど、でも、子どもたちの興味や好みを肯定することも、あまりなかったと思います。
それを感じていたので、「母親の私だけでも」と思い、どうすれば子どもたちの自己肯定感を育んでいけるか、ひとりで奮闘していましたが、子どもたちにとっては母親だけが肯定してくれればいいって話じゃないんですよね。
私も子どもたちも、自分の発言に夫が(父親が)どう反応するか、いつも気にしていたと思います。それが当たり前になっていたことが、不健全だったと思います。
私も私で未熟だったので、たとえば「この映画気になる、見てみたい」と夫に話しかけた時に「俺は興味ない」と返答されて会話が終わることすら、コミュニケーションだと思っていた(思い込もうとしていた)ところがありました。
※結婚する前はこんな感じではなかったです。途中で「もう我慢するのはやめた」と夫婦関係に匙を投げられて、こうなりました。
ある日、好きなアーティストさんがテレビに出ていた時に、何気なくその話を夫に振ったら、そのアーティストさんのことを全否定されました。その時は笑って流してしまったけれど、とても、とても、ショックでした。
それ以来、私は自分の「好き」を、家の中ではなんとなく隠すようになったのだと、今振り返れば思います。
声をあげて笑うことに勇気がいる
夫がどのような振る舞いをしようと、子どもたちを健全に育てるのは私の責任だと思い、かなり意図的に、子どもたちの前では声を出して笑うようにしていました。
でも、心の奥底ではいつも、夫の不機嫌を恐れていました。子どもたちと笑い合っている時に、あからさまにため息をつかれたこともあるし、無言で家を出ていかれたこともあります。(そして帰宅した夫に「どこ行ってたの?」と聞くと、「詮索されているようで嫌だからやめてくれ」と言われる。単純に気になっただけなのに。)
私にとって、家族で笑い合えることは、家庭生活の基盤であり、譲れない絶対条件でもありました。
子どもたちが声をあげて笑うことを遠慮するようになってはおしまいだと思ったので、夫への恐怖を感じながらも、勇気を出して笑い続けていました。
「笑うことに勇気がいる」なんて、どんな家庭だと、今は思います。
私が安心安全を感じていなかったので、子どもたちもどこかで不安を感じていたのではないかと思います。
家が安心安全だと、「好き」を公言できる
夫と離れて、誰より私自身が、自分の「好き」を口に出せるようになりました。
好きなアーティスト、好きな食べ物、好きな映画、好きな趣味。何を好きだと言っても、否定してくる人は、この家にはいません。
好きなアーティストが出ているテレビ番組を録画して見たり、好きな映画を見たり、そういうことですら、夫がいる家の中では、やるのが怖かったです。今思えば、夫の前では、夫に否定されないだろうことを選んで、行動していました。
それが今は、安心して「好き」を公言できるようになりました。
子どもたちも、本人たちに自覚があるかどうかはわかりませんが、「好き」をよく口に出すようになったと感じています。好きな曲や好きなキャラクター、好きなゲーム、好きなYouTuberなどなど、子どもたち2人の興味はバラバラですが、「好きなものを好きと言うこと」は当たり前になっていると感じます。
家が安心の場でないと、「好き」を口に出すことは難しい。
逆に、家の中で「好き」を公言できるということは、安心安全が保たれているということ。
別居からの、自分と子どもたちの変化を振り返って、そう思います。
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