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いとしい銀色の魚へ④

 桜の並木道を、英輔に少し遅れながらついていく。
 もう少し暖かくなれば花が綻び、この道も花見客で埋め尽くされるけれど、今はちらほらとだけ人が見える。敷地内に野球場やバラ園もある大きな公園だ。穏やかな午後、人々はベンチで体を休めたり、ランニングや犬の散歩をしたりして、思い思いにやさしい時間を過ごしている。
 わたしは静かに呼吸した。冬の寒さが、まだ名残を留めている。ひんやりとした空気を繰り返し吸い込む。すると頭の芯がすうっとして、わたしは正気を取り戻したような気持ちになる。教室にはヒトが大勢いて、空気は生ぬるい。そこでのわたしは頭まで酸素が回っていない。少ない空気でやっと息づいている。そんな気になる。
「ミワちゃん」
 英輔が振り向く。
「座ろうよ」
 わたしが返事をする間もなく、彼は腰を下ろした。
 それは大きな池の縁にあるベンチだった。そこからは池に架かる橋を渡る人や、カモの群れが隅の方で身を寄せ合う様子が見える。赤や黄色の遊具が置かれた広場がある。一人の子供がパンダの乗り物にまたがって、ぎいっこ、ぎいっこと揺れる甲高い音が池に響き渡る。
 わたしは英輔の横に腰掛けた。
 風が吹き抜けて、少し肌寒くなる。大きな雲がどんどん流れていく。揺れる水面が時折差す陽光に反射して明るく輝くけれど、その濃い灰色の水は触れるにはまだひどく冷たそうだった。
「寒い?」
 わたしは黙って頷いた。
「そう」
 英輔は平気な顔をして水面を眺めている。
「新しいクラス、どう」
「みんな優しい」
「そうだね。優しい」
 彼は一拍おいて、思い出したようにつけ加えた。
「気持ち悪い」
「うん」
 わたしは小さな声で同意した。
 強い風が吹く。わたしたちは少し肩をすくめるだけで、寄り添おうともしない。
「嘘くさいね。わたしたちが優しいなんて言うと」
 わたしもぼんやりと池を眺めながら言った。
「そうだね」
「どうしてだろう」
 英輔は急にわたしを睨みつけた。
「知らないよ。どうだっていい」
 わたしはポケットに手を入れていた。
 英輔がその手首を捕まえる。
「痛い?」
「うん」
「そう」
 わたしは目を閉じて、右手が痺れていくのを感じる。
「こういうの、前からだよね」
「うん」
「ずいぶん頻繁じゃないの」
「うん」
 右手の感覚がなくなっていく。
 日の光が瞼の裏で飛び交っている。明るいような暗いような視界と寒さの中、英輔の声を聞いていると不思議な気分になる。彼の手の冷たさにくらりとして、波間に漂い、やがて深い水底に沈んでいく。
「クラス替えがあったからかもしれないね」
 英輔は変わった声音をしている。子どもとも大人ともとれない、その半ばをとった微妙な音。いつもほんの少しだけかすれている。それがむしろ幼げだ。駄々をこねた少年が、そこにだけ残っている。
 英輔は一度手を離して、わたしのポケットに手を入れた。大きな手が小さな手をどけて、わたしの持っていたものをつかむ。
「危ないよ」
「ミワちゃんこそ。よくこんなものポケットに入れてるよ。いつから持ち歩いてるの」
「かなり前から」
「触るのは初めてだなあ。おれが知るより前からずっと持っていた?」
わたしは頷いた。
「ふうん」
 英輔はわたしがしていたように、それをポケットの中で弄んだ。
 わたしはじっと身を固くする。
「怖い?」
 英輔を見上げる。嬉しそうな、そしてどこかねじれた笑いを浮かべている。わたしは彼の手をポケットの中で捕まえる。
「ミワちゃんって臆病だよね」
 彼はポケットから手を引いた。代わりに足元に視線を落として、その手で何かを探し出す。
「それなのに、そんなもの持ち歩いてるなんて変だよ」
 言いながら、身を起こす。
 わたしは彼が拾った石を見つめた。
 英輔は立ち上がって、池に張り巡らされた低い柵の方へ歩いて行く。わたしは彼の背中を目だけで追いかける。
 英輔は長い手を振り切って池に石を投げ込んだ。ボチャン、と大きな音がして、遠くのカモたちがびくりとこっちを見る。彼はもう一度石を手に取って、思い切り羽ばたくように手を振った。それは大きな鳥が窮屈なカゴの中でそうしようとするのに似ていた。
 わたしはぽつりと呟いた。
「時々たまらなくなるの」
 英輔が首だけを私に向ける。
「そのためのもの。わかるでしょう」
 彼はもうひとつ石ころを拾って、私に近づく。手渡された大ぶりの石を見下ろして、それから英輔を見上げた。
 立ち上がって柵に近づく。ずしりと重いそれを、水面に叩きつけた。
 英輔も隣に来て、今度はカモたちのいる方へ石を投げつける。
 互いを温め合っていた優しいカモの群れは、慌てて空中に飛び上がっていった。


つづく

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