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浄瑠璃に引かれている故事はどこから引用されたのか[神谷勝広『近世文学と和製類書』]
浄瑠璃には、古典の引用が多くみられる。とくに時代物の段の冒頭には、漢籍から引かれたと思しき「故事」が付されていることが多い。
たとえば、『仮名手本忠臣蔵』の冒頭、大序の一番最初の詞章は、以下の文ではじまる。
嘉肴ありといへども食せざればその味はひを知らずとは。国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに、たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるるゝ。ためしをこゝに仮名書の太平の代の政 。
このうち「嘉肴ありといへども食せざればその味はひを知らず」は、『礼記』の「雖有嘉肴、弗食不知其旨也、雖有至道、弗学不知其善也(嘉肴有と雖も食わずんばその旨きを知らず)」からきている句で、「いくらおいしいごちそうがあっても、食べてみなければそのうまさはわからない」という意味である。
えー! 昔の人は『礼記』みたいな難しい本をみんな読んでたんですね! すごいですね!
……と、私も文楽を見始めた当初はそう思っていたのだが、だんだん、「いちいち原典にあたっているとは思えない」と思うようになってきた。
浄瑠璃の作者たちは、どこからこのような故事の知識を得ていたのだろうか?
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神谷勝広『近世文学と和製類書』若草書房(1999)を読んだ。やや古い本だが、示唆に富む内容だったので、以下に感想をまとめておこうと思う。
この本の趣旨、そして魅力は、巻頭にある著者自身の言に端的にあらわされている。
近世文学作品に関する典拠考証を行った場合、原典の漢籍・仏典等と微妙なずれを生じている事例にかなりぶつかる。このずれが生じた理由は、容易に想像できる。原典を直接参照せずに、何らかの媒体を介しているためであろう。これまでの典拠考証では、原典から性急に関連付けるものが相当多い。論者は、直接影響を及ぼした何らかの媒体に注目する。これによって、当時存在した様々な知識−−まっとうな知識ばかりでなく、俗信・俗伝・誤伝なども含む−−が、どのように吸収・統合・伝播され、文学作品を花開かせたのか、この仕組みの全体把握をめざしたい。
ここでいう「媒体」や「知識」はあまりに膨大であるため、本書では、和製類書・古典注釈書を媒体として取り込まれた中国故事にかかわる知識を中心に論じられている。
類書というのは、ものすごく乱暴にいえば「名言集」や「事例集」的なもの。さまざまな漢籍から「使える」語句やエピソードを抜き出してまとめ、便利に参照できるようにした本だ。中国で書かれたものが和訳され日本国内で流通している場合もあるが、最初から日本国内で編集されたもの(=和製類書)もある。
著者は、具体的な近世文学作品を挙げ、その文中にあらわれる文辞・語句から、「元ネタ」になった和製類書を推定する。そして、その「元ネタ」の使い方、選び方、アレンジの仕方などから特徴をつかみ、作品やその作者の個性をより深く掘り下げることを提案している。
著者は本来浮世草子中心の方ではと思うが、浄瑠璃にも一章がさかれている。そこでは、近松門左衛門、紀海音といった初期の浄瑠璃作者が「元ネタ」としていた和製類書が挙げられている。
近松は近松で研究ジャンル(?)として確立されているため、『近松語彙』(1930)という本に、作中に引き合いに出された故事の引用元となる典籍が紹介されている。
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よくある文楽の演目解説でも、故事の引用元としては、これらの典籍を挙げる場合が多いだろう。
こんなにもいっぱいの難しい本を読んでたなんて、すごいね!!!!!!
というのが素朴な感想だろうが、同時に、これまた素朴な感想、あるいは現実的な話として、これらの典拠はあまりにも「膨大」である。ほんとにこれ、全部、ぜーんぶ、見てたの??? なにもかもの作品が、これらの古典作品を直接利用して書かれているとはとうてい思えない。
本書の著者も、漢籍・仏典に関しては同じ考えで、集中的にひとつの典籍から引用をしている作品はともかく、多くの作品は上記のような原典を見ていたわけではないのではとして、以下の類書などを見て書いていたのではないかと推測している。
和製類書
『兪愚随筆』(延享元年[1673]刊)
『絵本宝鑑』(貞享5年[1688]序)
軍書
『通俗列国志後編』(宝永2年[1705])
『通俗漢楚軍談』(元禄8年[1695])
古典注釈書
『野槌』(寛永13年ごろまでに刊)
個々の作品(演目)のある一部分について、〇〇という書から流用がされているといった指摘は、浄瑠璃研究の論文でも目にすることがある。しかし、それらはあくまで断片的なものだ。ところが、本書では、ひとりの作者に対し、特定の類書の使用を複数の作品にわたって指摘している。この作者はこの類書を使用していたと思われる、なぜならば、作品Aに2箇所、作品Bに3箇所、作品Cに1箇所、作品Dに4箇所、その類書の特徴を残した文辞が使われている等々。近松に関して、これらの類書を使ったと思われる作品数は膨大である。読書中にメモを取っていたものの、途中で面倒になるほど、おびただしい作品に利用されている。
なぜ原典ではなくこれらの書籍を見て書いたと言えるのか。文辞が類似しているというのはもちろんだが、より確実な理由として、これらの書籍に含まれている「誤り」が作品へそのまま引き継がれていることによる。
その「誤り」は、文楽現行演目でも確認することができる。
『傾城反魂香』土佐将監閑居の段。不遇を苦に自害を決意した絵師吃又は、最期に師匠宅の庭に置かれた手水鉢へ自画像を描く。その際、実は神絵師だった彼の筆勢は石を突き抜けて、裏面に自画像が浮かび上がる。これを見た将監は、「王羲之みたい!」と言う。
しかし、王羲之(書家)の筆勢がすごすぎのあまり突き抜けたのは、実際には木である(『書断』)。石ではない。
なぜ近松は間違えたのか? 彼が見たのは『書断』ではなく、『絵本宝鑑』の王羲之の解説であり、『絵本宝鑑』が誤って王羲之の書は筆勢の強さのあまり石に入ったとしているのをそのまま受け取ってしまったからではないか。
以前、文楽で『傾城反魂香』が上演されたとき、この場面で、客全員が「なんで絵が石を突き抜けるんだ???🙄」という顔をしていた(巨大主語失礼)。なるほど、なんかどうにもおかしいのは、そもそもが間違ってたからなのか……。いや、木を突き抜けるにしても、シウマイ弁当の蓋くらいうっすく切った板じゃないと、なかなか墨とか染み込まないと思うけど。というか、シウマイ弁当の蓋、美味しいよね。シウマイ弁当の蓋の味はご飯にも突き抜けとるで! 王羲之の味や!!
アンチョコ本で引くのはいいけど、原典で確認しなおせよと言いたいところだが、当時はそういう感覚がなかったということか。
(厳密にいえば、現行上演の『傾城反魂香』は、後世の改作『名筆傾城鑑』の内容を『傾城反魂香』という題名にして上演している。近松原案だから近松作と称しているが、実は違う作者によってそこそこ加工されている。できあいのものを使ってこさえたデコ弁程度には。いわば「産地偽装」をしているのだが、この「絵が石を突き抜けた」部分は、近松原作と同じ)
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しかし、この本の目的は、元ネタはこれ!と「暴露」することではない。元ネタの存在を通して、その作者の特性、その時代の知性のありかたを知る手掛かりとすることを課題としている。その意味で、近松の引用の形態としては、興味深い点が3つかあった。
まず1つ目は、近松と彼の創作にとって、これらの類書がどのようなものであったかという点。
近松は、『野槌』を多く利用している。『野槌』は、林羅山による『徒然草』全編への注釈書(解説や参考コメント入りの本)。林羅山は儒学者であり、その立場から、解説として故事ネタを垂れつつ、『徒然草』にみられる仏教思想・老荘思想を攻撃す。しかし、近松が引用しているのは故事のみであり、仏教思想・老荘思想への排撃は踏まえない。あくまで故事のネタ本としているという。これが近松の使い方の特徴であると。
彼が思想性を「引用」しなかったのは、なぜなのだろうか。
偶然ながら、この本と同時に、川平敏文『徒然草の十七世紀』(岩波書店/2015)という本も読んでいた。それによると、17世紀は、『徒然草』が大ブームであったという。そのブームの風潮のひとつに、「『徒然草』から教訓を読み取る」というものがあったそうだ。いまもある「説教臭いエンタメ」的な感覚か。しかし、18世紀になると「んなわけねーだろ、書いてない深読みするな」派が出てきたり、価値観の変化によって教戒的読み取りが流行らなくなっていく。近松は若かりし頃、『徒然草』の講釈にも手を染めていたようで、『野槌』を上手く使い倒せていること自体はそのためであろうが、では『徒然草』の講釈では、彼はどのようなことを語っていたのだろうか。近松の浄瑠璃作者としての活動期は、教戒性が好まれた時期と関心がそこから離れていく時期の過渡期にあったものと思うが、彼は「んなわけねーだろ」派だったのか。浄瑠璃自体を読むと、それ以前に、なんかこう、素朴なところが多いので、そこまで考えてないのかもしれないけど……。
でも、近松って、良くも悪くも、思想性をもってエピソードを構築しているわけではないというのは確かだよな。テーマ性がないというか。時代物がつまらないのは、そのせいだと思う。世話物にしても、『大経師昔暦』とか、世間の「良識」にあれだけ弓引いて、悲劇ヅラしたうえで、最後のその大味な「まあ、大丈夫でした」みたいなオチはなんなんだ……? 教戒性を持てということではなく、あなた自身の美学とか、ないん?というか……。あの安直さとかナアナアぶり、よくわかんなさすぎる。そのイメージが引用の傾向によって補強された。
2つめには、『絵本宝鑑』のような絵入りの類書を使う際には、添えられているイラストも作劇の参考にしているのではないかという点。
『国性爺合戦』紅流しの段では、甘輝将軍の妻・錦祥女は、城外で待つ弟・和藤内への連絡のため、外へ流れ出す遣水へ赤い水を流し込む。この「水」+「赤いもの」を使った連絡は、「韓夫人の紅葉の媒の事」という故事を踏まえている。その内容は、紅葉に詩を書いて流した韓夫人が、それを拾った男性と夫婦になるというもの(調べてみると、これ自体は連歌では有名な話らしい)。『絵本宝鑑』でこの逸話に添えられたイラストには、宮女姿の女性が建物の上から細い川に紅葉を落とそうとしている様子と、その川下で男性が紅葉を手にしている様子が描かれている。文楽現行上演での演出が近松時代を引き継いでいるとはいえないが(というか、ありえないと思う)、この場面、たしかに近松時代にしては妙に視覚的演出だなと感じる場面ではある。イラストを参考にしているというのはある程度言えることなのかもなと感じた。明らかに視覚的演出を意識して書かれている並木宗輔・近松半二時代の作品でこのようなケースを立証できたらすごいと思う。
最後、3つ目、近松あるいは紀海音は、彼らの後進たちにこれらの類書をシェアしていたのではないかという点。
彼らは同じ座に属する若手作者たちに指導を行っており、その際、類書を共有しなかったとは考えにくいのではないか。実際、竹田出雲の『大内裏大友真鳥』は、上記『兪愚随筆』を利用していると思われる部分があるという。
竹田出雲時代以降になってくると、浄瑠璃は合作制になってくるため、誰がどの本を持っていたのか、あるいは共有していたのか等が複雑化し、使用した類書等の特定は困難になってくるだろうとは思う。宝暦期の竹本座では『××××』という類書が共有され多く使われていたとかは、大量の浄瑠璃・類書をデータベース化して解析を行えば、いえるようになるのかもしれないが。
というか、その点でいえば、この本自体、すごいんだよね。仮名草子、浮世草子、浄瑠璃など、近世文学のさまざまな分野にわたって類書の利用例やそこから導かれる作者の特性が論じられているが、出版されたのは1999年。現代ならともかく、コンピューターを用いた検索・解析が一般化していない時代に、よくここまで引用事例に気づけたなと思う。感じることはみな同じのようで、刊行当時の書評などをみると、まずそれ自体が驚かれていたようだ。
また、『国性爺合戦』の紅流しの指摘も、文楽か歌舞伎の舞台を見たことがあるか、そうでなければ錦絵などの知識がないと指摘できないことで、著者の方の関心の幅に驚かされた。歴史学や日本文学専門(近世文学含む)の方で、浄瑠璃あるいは歌舞伎・文楽についてチョイ触れする方はしばしばいらっしゃるが、「この人本当はたいして知識ないな、見たことないんだな」と逆説的に感じられることを書いちゃう人もいらっしゃるので……。
最初のほうに、林羅山は一度読んだものは帳簿であっても内容をちゃんと覚えていた的なエピソードが紹介されるが、著者もそういった「一度見たものは忘れない」性質のある方なのだろうかと思った。
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最後に、浄瑠璃に限らない、この本自体のまとめを書いておく。近世文学における類書を介した中国故事利用のありかたを大きく分けると、以下の3つがあるようだ。
話の枕として使う(浄瑠璃でいうと、冒頭部分でこれからはじまる話を暗示する故事を提示する)
例証として使う(浄瑠璃でいうと、奇妙な出来事があった際や、まとめシーンなどで、かしこキャラが「唐のなんちゃらは〜」のように、中国でもこういうことあったで!と言い出すようなやつ)
プロット全体への取り込み(なんらかの故事を構成へ全面的に取り込み、換骨奪胎して使っている場合。浄瑠璃では心当たりをつけられない)
1、2では、近松の『野槌』引用例でいうなら、「思想性は取り込まない」という引用者の特性をみることができる。また、引用にどのような語句を好むかに引用者の志向が現れることがあるという。なんでもいいから手当たり次第に引用しているわけではない作者もいるらしく、こだわりが出る場合には、存疑作の推定の材料になる場合があるようだ。
もっとも個性が出るのが3。古代中国の話を現代日本へ舞台を移す(たとえば古代中国宮廷の話を、享保期の大坂の商家の話に置き換えるとか)など、作者の工夫がみられる。多少のパーツ的な利用(キャラクター造形やエピソードの一部小ネタ)は数多くの例があると思うが、プロットそのものが大きく準拠しているパターンも、自分が気づいていないだけで、どこかには存在するんだろうな。と思った。
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自分は、個々の浄瑠璃作者の持っている個性に関心がある。それが何であるかを正確に掴むには、彼らのオリジナリティがどこにあるかを理解する必要がある。その参考のひとつとして、あきらかな「なにかから」流用はどこから流用しているのかを知りたいと考え、この本を手に取った。結果、その流用の手法から作者の個性をおしはかるヒントを得ることができて、良かった。
と、いかにもいい話にまとめましたが、自分で「この浄瑠璃のその部分はあの類書から取られている!」とはわからない(この本にはどうやってこれらの大量の事例を抽出したのかは書かれていない)。そのあたりはこれから勉強させていただきたいと、そういう思いでございます。