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花束みたいな恋をしていた全ての人々へ

「花束みたいな恋をした」は、良くも悪くも例えとしてよく出される映画だなと思う。主に悪い方で。

この映画が批判される原因は、サブカルチャーなオプション、エモに特化したシーンがあまりにも多いことにあるのだと思う。

天竺鼠のライブ、今村夏子のピクニック、カラオケで歌うきのこ帝国のクロノスタシス、イヤホンを片耳ずつはめる…。"サブカルチャー"と"エモ"の結晶のようなこの映画は、インターネットに溢れる一部の映画評論家から「オシャレサブカルを狙い撃ちした浅い映画だ」と揶揄された。そして、「この映画を好きな人間は浅い」と、鑑賞者を揶揄し始めた。今、タイムラインには「花束みたいな恋をした」の上の句には「観るのやめた」が下の句となって溢れている。

しかし、俺はこの映画は2015年から2020年辺りに大学生で、数年付き合った彼女がいたが、就職によって出来た溝のせいで別れてしまった全ての人間を最大限美化したメモリアルムービーとして見ることを勧める。

こういう見方をすると、全てに意味が出てくる。

まず、「天竺鼠」「今村夏子」「きのこ帝国」などの断片的なサブカルチャーな要素は、狭いようで当時のサブカルの最大公約数的存在だ。これを、「サブカルの羅列」と捉えるのではなく、「確かにあった思い出」と捉えていただきたい。この要素があることによって、この世代の人間は映画の世界に引き摺り込むことになる。

次にエモの要素だが、これも「無さそうでありがちな思い出」たちだ。「カラオケで一緒にクロノスタシスを歌う。」「イヤホンを片耳ずつはめて音楽を聴く。」など、皆言わないだけで、楽しかった思い出として深く刻まれている。

そう。この映画は、サブカルチャーなオプションによって我々を引き摺り込み、エモによってあの頃の日々を追体験させる仕組みになっているのだ。

そして、エンドロールで菅田将暉と有村架純が抽象化された絵で映画は締めくくられる。この絵も秀逸で、菅田将暉と有村架純の美男美女から、我々の簡易な似顔絵に見えてくる。なぜなら我々は揃いも揃って当時は同じような髪型をしていたからだ。

元来のミニシアター系の映画を期待して観た人間にとってはエモの押し売りのように感じるかもしれない。確かに"ジョゼと虎と魚たち"や"愛がなんだ"のようなドラマチックさはないかもしれないが、このぬるま湯のような幸せやありきたりな不幸は映画を観ている我々を映しているのだ。

大多数の人間にとっては知ったことではない大学生の恋模様だが、我々にとっては我々の映画なのだ。こんな映画が一本くらいあったっていいじゃないか。

ちなみに俺はこの映画を出町柳のミニシアターで観て5回くらい泣いた。嗚咽しながら泣いた。観終わった後目が真っ赤だった。

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