涼宮ハルヒの冷笑
【冷笑】さげすみ、見くだした態度で笑うこと。あざわらい。
世はまさに大冷笑時代である。人々は冷笑しあい、我慢くらべのように「自分の方が大人ですので…」と額に青筋をたてながらしたり顔をしている。
SNSであまりに多くの人間と人間が繋がりすぎた結果、自発的に狭いコミュニティの法律ができ、その法律に従う正義感の強い村人たちが「あっ。いけないんだ!先生に言いつけてやる!」とわざわざ別の村までおいでなすって我々の知らない風紀の乱れを取り締まっているのがこの大冷笑時代が始まってしまった原因だ。
Aさんが「おやすみプンプンが好き」というと、隣の村からやってきたBさんが「おやすみプンプンね笑。こういうサブカル好きですーみたいな人、手塚治虫の火の鳥とかはきっと読んでないんだろうなぁ笑笑」と冷笑し、また向かいの村からやってきたCさんが、「センスがいいと思われたいんでしょ笑。本当はワンピースが好きって言いなよ笑」と冷笑しにくる、と言った具合である。
彼らはまるで決闘者(デュエリスト)のように、冷笑デッキを常に持ち歩き、すぐに決闘(デュエル)を始めようとする。遊城十代にもこれにはゲンナリである。
しかし、なぜ冷笑という方法を取るのか。俺は深いところで「涼宮ハルヒの憂鬱」が関わっているのではないかと思う。
涼宮ハルヒの憂鬱とは、主人公であるキョンが、涼宮ハルヒという同級生に振り回されるドタバタSFコメディだ。
この主人公、キョンは常にこの涼宮ハルヒの言うことに「やれやれ」「なんで俺が…」と愚痴をこぼしながらも、不思議な物語に引き込まれていく…というのがいつものパターンである。
そして、当時の人間は皆「俺こそがキョンだ」と思いながら窓際で「この平凡な日常が続けばいいな」面をしてハルヒが転校してくるのを待ち望んでいた。
女性のオタクが教室の隅で「オイぃぃぃ!!!」だとか、「いや、メガネが本体じゃないから!!」などと叫んでる間、静かなので目立たないものの、夕暮れの校庭を眺めながら一部のオタクはオタクで彼らなりのロールプレイを楽しんでいたのだ。
そして現代、先述したように小さな村が乱立したことにより相対的に涼宮ハルヒが毎日タイムラインに現れるようになった。
「おやすみプンプンが好き」という何気ない一言も、彼らにとっては「宇宙人、未来人、超能力者は私のところまで来なさい!」と聴こえているのではなかろうか。
そうなったら話は早い。幾星霜とロールプレイをしてきたジェネリックキョンの皆様方は一斉に立ち上がり、「やれやれ…」と被りを振りながら全力疾走でハルヒの元へ向かってくる。
SNSという特性上、みな「自分が思う自分」をピックアップして発信を行っている。どこかで「自分の憧れの存在」に無意識に寄せてしまうものだ。
ただ、その冷笑はキョンからなのか、阿良々木暦からなのか、キリトからなのか。これは世代に分かれると思う。兎にも角にもみんな違う世界線の岡部倫太郎なのだ。