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スタンダードナンバーに物語を

ジャズ倶楽部に入って最初に課された試練は「スタンダードナンバーを覚えろ」だった。

ジャズには「スタンダードナンバー」というものがある。これはセッションでよくやりがちな曲、と思っていただいて差し支えない。
あらかじめ練習に入っていなくても、みんなそのスタンダードナンバーさえあらかじめ練習しておけば、その場で決められたメンバーでも演奏できるので、ジャズで、特にセッションをやるにはこのスタンダードナンバーを覚える必要があるのだ。

「なるほど。理にかなっている。」と思うかもしれないが、このスタンダードナンバーの楽譜集、いわゆる黒本には227曲もの楽曲がおさめられている。

「ジャズってどんな音楽なのかしら」程度で入ってきた俺にとってはこの黒本は厚き壁であった。

とりあえず近所のレンタルビデオ屋でスタンダードナンバーがとにかく詰め込まれている5枚組ほどのCDを借りてきて、ipodに入れて聴きまくったのだが、一向に覚えられない。

原因として色々考えられるが、まずジャズという音楽が体に馴染んでいない。
「紅白歌合戦をみていたら同じような演歌を色んな人が歌ってるように見える」といった現象に襲われたことはないだろうか。あれと全く同じである。

ジャズに対する知識がないので、どれを聴いてもジャズという枠組みでしか捉えることができず、「あーまたジャズだー」と言った具合に曲が進んでいく。

ビリーホリデイのサマータイムのように、歌い出しからタイトルを言ってくれるタイプのサービス問題や、モーニンのようにジャズに知識がなくても耳馴染みのある曲をのぞいて、自分に全く縁のない学校の卒業アルバムに映る生徒の写真で神経衰弱をしている気分になった。

酷い時は1曲を聴いているつもりがすでに3曲聴いていた時がある。

俺は聴覚での記憶はまず一旦諦めた。

しかし覚えなければならないことに変わりはない。

そこで俺はジャズのスタンダードナンバーに、物語をつけることにした。

ジャズにはボーカルがあることもあり、その際の歌詞がついていることも珍しくない。また、「〇〇という映画の〇〇という場面で使われたのだ」と、はなから情景が提示されているものもある。俺に残された道はここしかないと思い、俺はジャズのスタンダードナンバーを物語として記憶した。

まずは「but not for me」というスタンダードナンバーに手をつけた。この楽曲には歌詞があり、とても覚えやすかった。内容としては「世間には恋の歌が溢れ、空には星が輝くけど、それは私のためじゃない。そして愛しの彼も、もう私のものじゃない」と、切ないラブソングだ。
レッドガーランドの切ないピアノや、チェットベイカーの甘い歌声にぴったりの楽曲で、すぐに覚えることができた。

次に「酒とバラの日々」という楽曲に取り掛かった。この楽曲は「酒とバラの日々」という同名タイトルの映画の主題歌をジャズアレンジしたものが今スタンダードナンバーとして定着した背景がある。映画は観ていないが、アルコール中毒の夫婦の話ということは知っていたので、そこから酒に溺れ、人生が破滅に向かいながらも、小さな幸せを噛み締める夫婦を作り出した。
俺が聴いていたのがウェスモンゴメリーが奏でる切なく、儚い酒とバラの日々だったので、オスカーピーターソンのバージョンを初めて聴いた時はあまりの明るさに驚いた記憶がある。

こうした具合に、一曲一曲物語を作っていき、全ては到底難しかったが、スタンダードナンバーの中でもとりわけよくやる30曲程度を覚えたころ、部内でセッション大会が開かれた。

完璧とは言わないまでも、曲自体はずっと聴き続けていたので、覚えてなくても始まればわかるはずだと息巻いて参加した。

先輩から「じゃあSUNNYをしようか」と提案された。

SUNNY…?全く聞き覚えのない曲だったので困惑していると、俺の手元にいつも見ていた黒本の真ん中に"2"と書かれた、別の黒本が手渡された。

そう。黒本には2があるのだ。

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