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ホドロフスキーは生命讃歌だ

 
アレハンドロホドロフスキーは俺が1番好きな映画監督だ。
奇抜な演出、支離滅裂とも言えるストーリー展開から「カルトの帝王」と呼ばれるこの映画監督だが、実は表現したいことはシンプルで、一言で言うならば「お前の人生を生きろ」だと思う。

彼の作品は、人生の波乱万丈を詩的に映像化しているに過ぎない。喜びの光、悲しみの水が、時に毒々しく映るが、それは生命が本来持つパワーを体現しているからだ。"シュールリアリズム"が日本語で"超現実主義"と訳されたのも彼の映画を見ると納得である。

エルトポ、サンタサングレなどでは分かりやすいが、そのような生命の大きなエネルギーを、序盤でしがらみによって制限される。

エルトポでは女に、サンタサングレでは母親に操られ、その生命を全うしようとしない。

結果、彼らは操り人形のように、糸の先にいる誰かの生贄となり空回る。しかし、その糸を切った先に輝かしい人生が始まる。ホドロフスキーは常にこの糸を切るきっかけを与えてくれているのだ。

これは他人事ではない。

「もう少し若かったら俺もああしていたな」
「自由に生きれて羨ましい」
など、君が思っているならすぐにでもホドロフスキーを見るべきだ。その縛られた人生を生きているのは君だ。羨ましがる暇があるのならばすぐにそのしがらみから離れるべきだ。親を殺す必要があるなら親を殺し、離婚する必要があるなら離婚をした方がいい。とにかくこれは君の人生なのだ。

俺がホドロフスキー作品の中で最も好きな作品はホーリーマウンテンだが、このホーリーマウンテンに関しては最終的に映画のセットを壊してアレハンドロホドロフスキーが直々に「これは映画だ。お前はお前の人生を生きろ」と説教していただける。一時期「君たちはどう生きるのか」の嘘のネタバレとして「宮崎駿が実写で出てきて2時間説教される」という噂が広まったが、ホドロフスキーはそれに近いことをもう1973年の段階でやっている。

人生は短い。激しく生きて、満足して死なないのは生命に対する冒涜だ。

これは別に「何にでもチャレンジせよ」と言っているわけではない。リスクをおかすことと、自分で選択することは違う。リスクをおかしたくないのならリスクをおかしたくない人生を自らで選べ、と言っている。「俺は本当はこんなもんじゃないけど…」など、自分の人生を他人のせいにするな、というだけだ。

よく人は「常識的に考えてそんな生き方はできない」などと大人びた顔で言う。常識とは、マジョリティーとして生きやすい道のことを指す。自らをマイノリティーであることに確信を持ちながらもなぜマジョリティーの波に飲まれて幸福に生きられると思うのか。理解に苦しむ。

幸福は自らの手で掴み取れ。絶望を心ゆくまで味わえ。他人に嫌われろ。人を愛せ。人生は一瞬だ。思う存分生きろ。

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