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天国注射の昼と終焉

1970年代後期の日本のアングラのロックシーンは禍々しい魅力を持っていた。

暴力・薬物・性欲に塗れ、表現の自由を盾に豚の頭を投げたり、ライブ中に放尿したりなど、思いつく限りのコンプラ違反をしていたようだ。

当時の彼らは今でも伝説として語られることの多い1アングラシーンだが、俺はこのアングラシーンの音楽性を「このギターのリフがね…」だったり「音楽性がね…」など、今は語る気はない。(今後語る可能性はあるが)

俺はこのアングラの"剥き出し"について語りたい。

表現とは、どの方法を選ぶかは自由だが、自分が見える世界をどれだけ解像度高く体現できるか、が軸だと考えている。

当時のメインカルチャーであった歌謡曲は緻密な技法により、表現を行っていた。
例えば太田由美の「木綿のハンカチーフ」などは、都会に染まる男と、田舎から見守る女を見事に歌に落とし込んだ名曲である。流石松本隆、流石筒美京平といったところである。

ただ、このような幸せな人生のひとつまみの悲劇などアングラには似合わない。

アングラは人生そのものが悲劇であればあるほど良い。地獄の底から漏れ聞こえる悲鳴こそがアングラの魅力だと思う。

人生への絶望と雁字搦めから起こる発狂は、ステージに上がると怪しく光り輝くのである。

INUの「フェイドアウト」の歌詞を見る。
「それがよくないのはわかっているが、頭痛のボリュームはいつも最大、イラ立ちを何とかするには、穏やかに死んでいくしかない」
この一節だけで幸福とは程遠い生活が伺える。彼らの楽曲から漏れ出す人生への苦痛には理想や夢などなく、ただ漏れ出る日々の生活なのだ。

また、ガセネタというバンドの「社会復帰」という曲では、統合失調症患者の譫言のような山崎春美のボーカルに浜野純のギターがまるで発狂した男の悲鳴のように脳天を突き刺す。

じゃがたらの「タンゴ」では、ボロボロの薬中がニヒルにこちらに笑いかけてくるような不気味で怪しい空気が流れる。

人生に期待などもうしていないが、それでも生きてしまった、その葛藤をどれだけそのまま音に乗せられるか、の世界だと思う。つまり"剥き出し"だ。

1980年、このアングラ集団を集め、新宿で「天国注射の昼」というイベントが行われた。

マイナスのパワーを一同に集めたこのイベントでは様々な反社会的な興行を、また反社会的な生暖かい優しさで包み、まるでモルヒネのように苦痛を和らげる夢のような一夜となったようだ。

一部残っている当時の映像でもその禍々しい魅力を感じることができる。少なくとも学生だった俺を引き込むには十分な程。

その後、このアングラシーンはひっそりと終焉を迎える。
アングラの悲しき性で、安寧は共存できないのだ。

INUのボーカルであった町田町蔵はその後名を町田康に変え小説家となり、ガセネタも方向性の違いで解散、じゃがたらの江戸アケミも風呂場で変死した。

俺はこれでいいんだと思う。続かないからこそ本物なのだ。

刹那に生きているからこその美しさは、明日のご飯のことを考え始めた時点で鈍く濁る。破綻した人生の一瞬の夢、一瞬の輝き、一瞬の暴力、一瞬の熱狂…。朝が来たら全て無くなってしまった。

夢から覚め、また新たな歌謡曲的な一日が始まるのなら、夜の間は狂乱に満ちたサーカスだっていいではないか。

そして道化師たちは夜明けとともに眠りにつく。

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