地球と世界
地球と世界について語りたい。
この2つの言葉は、どちらも我々が生活する広大な範囲を表すことがある。
しかし、この2つには大きな違いがある。
世界とは、我々が見たり、聞いたりして感じた、知覚した範囲のことである。認知世界とも言える。
地球とは、我々を取り囲む自然の総体であり、惑星の名前だ。
例えば、新種の動物が発見されたとする。その生き物は以前から地球上に存在したが、人間が発見し発表したことで我々の世界に現れたのである。
世界地図も同じだ。あれは世界地図であり、地球地図ではない。コロンブスが新大陸を見つける前はヨーロッパの世界地図に新大陸はなかったにちがいない。地球上にはあって、人も住んでいたのに。
新大陸の例から、世界は一つではないということもわかる。
新大陸発見以前のヨーロッパ人の世界にはアメリカがなかったが、当時のアメリカ人の世界にもヨーロッパはなかっただろう。
世界とは個人が知覚した範囲であり、個人の経験に依存するため、人によって様々な世界がある。
一方で地球は1つである。
人が知覚しようがしまいが、地球は存在する。
というか、人が誕生する前から地球はある。
つまり地球は大先輩なのである。
世界は同期、いや知覚を始めた時期を考えると後輩かもしれない。
人間の総体で立ち向かっても地球はバカみたいに先輩である。
地球を敬え、なんてエコ運動を今更始めたいわけではない。
世界ごときが地球を理解した気になっていることに疑問がある。驕りにも程がある。
Googleで「世界 意味」と調べるとデジタル大辞泉の「世界」の1に
“地球上の全ての地域・国家”
と書いてある。
驕りすぎである。舐めんな。
「地球上の全ての国家」ならわかる。国家は地球上に人間が作り出したものであるので、人間が区画した国家の全てを世界と呼ぶことは理解できる。
だがしかし、「地球上の全ての地域」これに関しては同意しかねる。この辞書の編纂者は地球上の全ての地域を見たということだろうか。
これが大きな問題なのだ。
インターネットなどの通信技術の進歩によって我々は家の中から地球のあらゆる場所を見ることができるようになった。
山の上もアマゾンの奥地も砂漠も。どんな所なのか見ることができる。
だから我々は1歩も動かずして地球を知ったなどと勘違いする。
そして「世界=地球上の全ての地域」などと言い始める。
地球という○の中にそれぞれの世界という○がある。時代とともに世界の○がどんどん大きくなって、◎の2本の幅が狭くなっているから1つの○だと勘違いするのだろう。
謙虚にありたいものだ。