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「遠いデザイン」第10話

 映像室で三谷から聞かされた話が下地になって、七瀬は、土曜日にかかったきた電話は、亮子が自分のケイタイの番号を教えることが目的だったように思えてきた。わざわざ休日に、それも要件からして不自然だった。

 亮子はオレに、好意のようなものを抱いてくれていたんだろうか? 仕事が終わっても連絡をとりあえるホットラインのようなものを残そうとしたのか? いや、少なくても嫌われてはいないはずだ。だって、自分のケイタイの番号を知られてもいいとしたのだから……。

 四月もすでに下旬を迎えていた。不景気な世相を反映してか、朝刊に折り込まれるチラシの数は相変わらず減る気配がない。七瀬は大小様々なチラシの束からようやく本日折込みされたJAのチラシを見つけ出し、リビングのガラステーブルの上に広げてみた。

「ブランド産品誕生!」のコピーが踊る紙面には、認証マークを肩に付けながら、メロン、ミカン、緑茶、白米などの写真が並んでいる。七瀬は、亮子との日々が凝縮されたその紙面をしばらく懐かしく見入っていたが、そのうちにキッチンの方から聞こえてくるガスバーナーの着火音、フライパンを跳ねる油の音、ポットに注がれる熱湯の上昇音、冷蔵庫の開閉音などが、不純な雑音となって耳に付いてきた。彼はチラシを畳んで通勤用の鞄にしまいこんだ。

 壁際に鎮座する大型のリビングボードの前には、登校した長女愛読の数冊のコミック本が昨夜読み散らかしたままに乱雑な背表紙を見せている。小学校も高学年に上がり大人の片鱗を垣間見せるようになった娘に、七瀬は最近、脅威を感じることがある。その成長の代償として自分の老いがあると思えるからだ。

 それでも、食卓に並ぶ朝食のハムエッグの黄身はいつものように半熟で、トーストも好みの濃いキツネ色に焼かれていた。バターを塗ると、ザラついた表面からこぼれ落ちたパン屑がスリッパの回りを汚した。

 日常はその傷みやすい部分から微かに変色しながらも、一見変わりなく動いている。一日のはじまりは、いつも七瀬にとって、理髪店が朝一番の客を迎えるために散髪椅子の袖に並べる剃刀ように冷ややかで清潔だった。そして、彼が亮子から受け取ったメッセージーもこの日常の中でいろいろな解釈が試みられ、ずっと頭にあった一つの疑問、なぜJAの一部の男性職員から目の敵にされたのか、ということに答えらしきものを与えていた。

 ケイタイをドライブモードに切り替えてから車のエンジンキーを回す。先に路上に出て手招きする妻に短いホーンの音を送り、ハンドルを戻してアクセルを踏み込む。最初の角を曲がると、サイドミラーに小さく残る妻の姿が飛び、入れかわりに広々とした空き地の風景が流れていく。

 あれほどの美人だから、亮子に好意を寄せる男性職員は少なくないだろう。ただ、オレは仕事として彼女と会ってきたまでだし、誘いや好意を匂わせる言葉はおろか、プライベートな話題すら一度だって口にしたことはない。かりに亮子が自分に好意を抱いてくれていたとしても・・・・・・いや、それは恋愛感情というより、スキ、キライ程度のものだろうけど、そんな軽さも手伝って、亮子は仲のいい同僚に何気なくそれを口にしたのではないか。それが変に増幅された形で男たちの耳に入っていった、真相はこんなところだろう。

 しかし、プロジェクトが終了してしまった今、そんな推測しても無意味だった。亮子という存在はこれから日を追うごとにぼやけ、その形を無くしていくだろう。

 ここ一週間は仕事が薄く、今抱えているのは港湾物流会社の会社務案内だけだった。マンションの仕事部屋に入ると、ここ数日、デスクのスタンドホルダーに挟んだままのその面付け紙に目が行く。取材テープを書き起こしたきり、本文にはまだ何も手をつけていない。今月の少ない売上が頭をかすめ、七瀬は脱ぎかけたジャケットにまた袖を通した。

 駅前の大型書店は開店直後ということもあって、店内は棚の補充をする店員ばかりが目についた。七瀬はビジネス書のフロアに行き、業務案内の原稿づくりに役立ちそうな書籍を探し始めた。
 国際貿易、外国為替、通関業務、ロジスティックと、目を引いたタイトルを数冊棚から引き抜いてレジへ向かう。事務所に戻り走り読みをはじめたが、最後の一冊を閉じた時にはすでに日が傾いていた。

 コピーを書くために必要な知識や情報は、彼にインスピレーションを与える記号の集まりに過ぎなかった。一つの仕事のために集めた知識や情報は次ぎの仕事にかかり出すと、ほとんどが消え去ってしまう。

 それでも今、コンピュータの前でじっと腕組みをしたまま意識を遊ばせていると、さっきまで飛ばし見ていた文字や写真がちらつき始めて、一つのストーリーらしきものができ上がってくる。その曖昧な端っこを捕まえようと、七瀬は椅子から身を起こしキーボードを引き寄せた。

 まずは、企業ビジョンからだ。

 電磁波の乱れのためか、微弱に震えだしたディスプレイに生のテキストが次々と生まれ出てコンピュータが二度フリーズした。

                 ※
 どうしてこっちに持ってくるんだ。七瀬は舌打ちしながら、エントランスの郵便ボックスから引き抜いてきた大判封筒をソファの上に投げ出した。表に刷られた印刷会社の名前からすぐに察しはついたが、その中身は、JAの印刷物に使用した多量のポジだった。

 一瞬、メディア通信社に戻そうとも思ったが。そっちに任せた仕事なんだから、最後まで責任持ってJAへ返してくれよ。三谷がそう言うのは明らかだった。

 昨夜、久しぶりに仕事で午前を回ったこともあり、室内にはまだうっすらとタバコの臭いが漂っていた。七瀬はブラインドを引き上げサッシ戸を全開にした。ベランダの隣室との仕切板の隙間から、派手なランジェリーが覗いている。日が落ちる頃、厚化粧をしてエレベーターを下りていくキャバクラ嬢風の隣人が起き出すのは、きまって午後過ぎだった。

 ポジを数枚の小袋に入れ直して部屋を出た。エレベーター口へ向かうと、前方に淀んでいた匂いが鼻腔を突いた。角部屋に住んでいるタイ人女が室内でよく焚いているお香の匂いだった。その部屋へ自営業風の中年男が日が高いうちから出入りする姿を何度か見かけていた。

 マンション裏手の駐車場に停めてある車に乗り込んだ時、これからポジを届けにいく連絡を亮子にしようか迷ったが、そのまま車を一方通行の路地へと発進させた。彼女が不在でも、受付にポジを預けてくればすむことだった。

 まだブランド推進室はあるんだろうか? それともプロジェクト終了とともにチームも解散して、メンバーはそれぞれの職場に戻ったんだろうか?

 亮子と会わなくなってからもう三カ月近くになる。いま再び、七瀬の意識が彼女をなぞってみると、その輪郭は柔らかくぼやけてしまっていた。そして、その輪郭のまわりで、以前、映像室で三谷に茶化されたことや、それを一部の男性職員がした何かの勘違いと結びつけて、変に解釈してしまったことなどが、気恥ずかしく思い返されてきた。

 亮子のケイタイの番号こそまだ残してしてあったが、七瀬がそこにかけたことはなかったし、もちろん、彼女からかかってくることもなかった。いっとき七瀬は、亮子という波間で大きな気持ちの揺れを体験したが、すべては何のほころびもない予定調和へと収斂していったのだ。

 今思えば、あの電話も、わずかの修正でさえ伝えておこうとした彼女の真面目の裏づけでしかない。なぜ、そんな単純なこともわからなかったのか…。そして、なぜあんなに涼子の前で身構え続けていたのか…。

 七瀬は、今日、彼女に会うことができたのなら、言えずじまいだったお礼の言葉を言おうと決めた。久しぶりに受けたまとまった仕事、彼女が担当してくれたおかげで何一つ問題は起きなかった。
 サイドガラスを落とすと、気持ちのいい風が入ってきた。六月の梅雨雲の切れ間から顔を見せた陽光が七瀬の顔に照りつけた。
 
 JAの店内に入ると、窓口には珍しく順番待ちの客の列ができていた。亮子を呼びだしてもらおうと最後尾についた七瀬は、何気なく眺めていた共済部の職場で見覚えのある女性がコピー機を動かしていた。以前、メディア通信社に保険の営業にきていて、居合わせた自分と名刺交換した女性だった。

 窓口のカウンターにもたれかかるようにして背中を丸めた老女は、いまだに立ち去りそうな気配がない。深い皺が刻まれた手の甲には薄墨を散らしたような染みが点々と付いている。印鑑が必要なことがやっとわかったのか、巾着袋の中をまさぐりはじめる。

 七瀬は列を離れ、開閉フロアを仕切る板を押して共済部の職場へ入っていった。少々抵抗があったが、順番を待つよりその女性職員にポジの返却を頼んだほうが早いと思ったからだ。しかし、彼女は七瀬に気づかず、職場の奥の方へと歩いていった。

 声をかけようとしたが名前が出てこなかった。早足で追いかけて休憩室の前まできた時、開いたドアからテーブルに座っている女が見えた。顔をうつむけ、肩をわずかに動かして何か書きものをしているようだった。七瀬はそれがすぐに亮子だとわかった。

 彼は軽く会釈をして中に入った。そして女の横にきて「川奈さん」と小さく呼びかけてみた。彼女は顔を上げない。自分の紺色のジャケットの袖が目に入ってもいいはずなのに。

 七瀬はためらいながら、もう一度、声をかけた。白く細い首がゆっくりと回った。その瞬間、あっ、と言葉にならない声を発して、亮子が跳ね返るように椅子から立ち上がった。床を擦る座脚が音を立てた。
 亮子の顔がみるみる紅潮していくのがわかった。室内にいた職員たちがいっせいに二人の方をふりかえった。驚いて声が出ない七瀬の前で、亮子の笑顔がゆっくりとふくらでいった。

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