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「遠いデザイン」第4話

 結婚情報誌の入稿を終えた七瀬を待っていたのは、JA西南が立ち上げたブランド化事業の追い込みだった。県西部三市五町にまたがる集荷エリアの中から、品質や食味、出荷量などを基準に有望な農産物を選定し、地域ブランド品に育てるというプロジェクトだった。商品の付加価値を上げることは、首都圏マーケット開拓の前提でもあった。

 プロジェクト自体はメディア通信社という広告代理店が音頭をとって、すでに一年以上も前から進められていた。七瀬も外注のコピーライターとして当初からこのプロジェクトに参加していたが、難航していたブランドのロゴマークがようやくJA役員会から承認され、いよいよ印刷物の制作という段階にくると、メディア通信社の営業課長である三谷から、仕切り役を押しつけられてしまった。

 複数の印刷物を同時に制作するということもあり、JAの方も営業の三谷より、制作に明るい七瀬と直接仕事を進めた方がいいと判断したのだろう。
 パンフレットの制作時には、老眼が進んだ初老の男性職員が担当していたが、すぐに若い女性職員へと替わった。それが川奈亮子だった。

 亮子は、七瀬が素直にきれいと思えるような女性だった。もちろん、彼のように長く広告の仕事に携わってきた者なら、きれいな子は見慣れているし、今までに収集してきた美人のサンプルも普通の男より多いはずだ。しかし、亮子を一目見た瞬間、七瀬の心に飛び込んできたのは変化球ではなく、まさに直球だった。彼女はメディアに群がる業界の女の子たちとは明らかに違う匂いをもっていた。

 どちらかといえば古風な顔立ちで、言葉の端々にイントネーションの違いが見られたが、それがかえって、どこかに温存されていた土地だとか、時間だとか、そんなものの奇跡のさじ加減を思わせた。
 しかし、七瀬は亮子に傾きかけた気持ちを無理やり引き戻そうとした。彼女の美しさが、また仕事の障害にもなりえるからだ。かって、仕事が薄い時期があって、仕事場にしていた賃貸しのワンルームマンションを引き払ったことがあった。

 いくら美人であろうと、得意先の社員の顔など、増え続ける名刺の識別役でしかない。そう気持ちを切り換えて、毎日コツコツとマキを割る作業に戻ろうと思った。まだまだ先は長い。なんの生活の保障もないフリーのライターにとって、絶やすことのできない生命線は仕事の種火なのだと、自分に言い聞かせた。
 だから、七瀬は亮子と二人きりで打合せをしていても、仕事以外の話をすることはなかったし、なるべく事務的にこなすことを心がけた。亮子の方も七瀬のプライベートな部分にふれてくることはなかったし、必要な話がすんだら、二人とも不自然なくらいそそくさと席を立った。

 亮子は、いつもはきはきとした敬語で七瀬に接してくれた。丹念に紙面の文字を追い、直しをまとめてくれたし、きちんとした説明を加えて上司の了解もとりつけてくれた。これだけの数の制作物が重なったのにもかかわらず、初回カンプの提出からこれまで、トラブル一つ起きなかったのは彼女が担当してくれたおかげだと、七瀬は感謝していた。

 いつもと同じ、9時半過ぎに、ワンルームマンションの一室に入った七瀬は、Macを立ち上げて、メールをチェックする。今日は午後から三谷課長に同行して、制作物の総見積もりをJAに提出する予定となっていた。
 突然のチャイムの音に驚き、七瀬は玄関の方を振り返る。午前中は誰とのアポも入っていない。打ち損ねたキーボードがディスプレイにrpc、の文字を送っていて、それを打ち消して椅子から立ち上がると、玄関のドアノブが回り、含み笑いを浮かべた美紀の顔がのぞいた。

「驚かせてごめんなさい」
 美紀はコーヒーコップが透けて見えるビニール袋を提げて室内に入ってくると、脇に挟んでいた分厚い角封筒を抜き取れと、あごで指図する。
「課長からの伝言よ。午後のJA打ち合わせ、一人で行ってくれって。別のオリエンが入っていたこと、あの人、すっかり忘れてたのよ。これが、今日、先方に提出する資料」

 中身は十数部もコピーされた見積書だと知って七瀬は気が滅入る。思えばこのプロジェクトがスタートするときに「メディア通信社・契約社員」と刷られた七瀬用の名刺を用意した三谷だったが、今ではその魂胆がすっかり見えていた。
「私のwebの分も入っているからよろしくね。大丈夫よ、ただ、先方に預けてきさえすればいいって。おカネの交渉は後から自分がやるって、そういってたわよ」
 ソファーに腰を沈めた美紀は、指で簡単にへこむ薄いプラスチック製のコーヒーカップを袋から取りだして、目の前のガラステーブルの上に並べ置いた。差し込んだストローの中を黒い液体がルージュを引いた口元へと昇っていく。

「あの子、名前なんていったかしら? ほら、あのJAの・・・担当者、課長がきれいだって言ってた子よ」
「ああ・・・・・・川奈さんかな」
「そうそう、川奈亮子。あの子、まだ、担当なんでしょう?」
 白いビニルクロス貼りだから、余計にタバコのヤニが目立つ仕事部屋に美紀のハスキーな声が振りまかれる。七瀬は小振りのガラステーブルを挟んで、美紀の前のソファーに腰を下ろす。

「彼女、とてもよくやってくれるよ。文字校正だって細かいところまで見てくれるし、仕事の段取りだって上手い。おかげでこっちの負担も少なくて済む。上司だって、もう、すっかり彼女に任せっきりだよ」
 美紀は外国製の薄荷タバコに火を点け、その軽さと細さを確かめるように挟んだ指先を揺らしながら煙を吐きだした。メンソールの冷ややかな匂いが漂った。

「あの子、入って何年目? 生まれはどこ?」
 ふいに視線をはずした七瀬を見て、美紀は「フフッ」と鼻で笑う。
「こんなに長く二人で仕事してるのに、そんなことも知らないの。七瀬さんらしいわね」

 灰皿にタバコをもみ消した美紀は、何かを思い出したように小さく頷いてソファから跳ね起きた。手首の赤いバングルが揺れて、スチールラックから覗く小型の置き時計にチラッと目をやる。
「じゃあ、戻るわ。午後から、課長に同行しなくちゃならないから。まったく、何の準備もしていないのに」
「それって、何のオリエン?」
「分譲マンションっていってた。古い客から、久しぶりに声がかかったのよ。七瀬さん、そっちのコピーも頼むわ。課長に押しとくから」
 美紀は玄関のドアノブを回した。一瞬、明るんだ玄関口が空気が抜けていくような開閉音とともに、薄暗くなった。

                 ※
 JAにはどう話がいっていたんだろう。今まで通されたこともなかった来客用会議室にはすでに部会長たちが顔を揃えていた。彼らは、面食らいながら七瀬が手渡す見積書を手にした先から広げはじめる。
 外注である自分には金額に関する権限は一切ない。この席で出た要望を三谷にバックすると伝えるしかない。七瀬は、同席した亮子を目の端に留めながら腹を括った。

「うちの部は、売り上げからもいって、まあ、総額の十%がいいところでしょう」
「ここはひとつ、柑橘部さんにがんばってもらいましょうか。なんていったって、花形商品いっぱい抱えてますからなぁ」
 柑橘、花卉、野菜、製茶、米穀と、格幅はいいが、どこか緊張感を感じさせない部会長たちの話は、すぐにこのプロジェクト費の賦課金の駆け引きに変り、七瀬を傍観者の立場へ追いやった。

 あらためて見積書を眺めてみると、そこには一目瞭然、上乗せられた数字が並んでいた。デザインやコピー、撮影などの制作費、印刷代、web関連の費用を加えた総額は軽く二千万を超えていたが、部会長たちは、広告の実勢価格というものをまるで知らないのか、誰も値切ろうとする気配すらない。
 日々、販売競争とコスト削減に身をやつしている民間企業では、見積書を出せば、「高い!」というのが挨拶代わりになっているご時世だ。三谷がJAを大切にしてきた理由が飲み込める。

 印刷物担当ということで呼ばれたのだろうが、亮子も七瀬同様、この席ではカヤの外に置かれていた。彼女は周囲の喧噪に気を奪われることなく、ただ見積書に視線を落としたままでいる。そんな彼女にひとたび意識が傾くと、男たちの声がしだいに遠ざかっていって、七瀬は何度も亮子を盗み見した。二人だけで何度も会ってはいたが、彼女のことを観察する心の余裕など、今まではなかった。

 まるで、一本の導火線の先々にいくつも火薬が仕掛けられていたみたいに、笑いの連鎖が起こった時、七瀬はとっさに顔を上げた。そして、まっすぐに亮子を見つめた。

 亮子の横顔がそこにあった。うつむいていたので額に垂れた前髪で目の表情はわからないが、形の良い鼻梁と少し厚めの唇が見てとれた。白い肌の横顔が空間に孤立していた。
 こんな田舎じみた組織の中になぜこんなにきれいな子がいるんだろう? 七瀬はその不思議をあらためて感じた。ただ、陽に暖められた土の匂い、緑の梢を巡る風の感触、小石を揺らす柔らかな水音・・・。きっと、この組織とも遠くでつながっているそんな風景と、亮子が重りあう気もした。

 一人の男の声が投石となって、澄み切っていた七瀬の心に波紋が広がった。彼は亮子から目をそらした。

「問題は婦人部の連中の理解だよ。こう兼業が多いと、奥さん方の意見が強いからね。つまり、認定からもれた農家をどうするかってことだよ」
「もともと、ブランド化の話は、柑橘部さんの青年部から上がってきたんだろう」

 プロジェクトは終盤にきているというのに、また初期の問題が蒸し返される。青年部という言葉を耳にして、七瀬は以前、この仕事で取材した青年のことを思い出した。広い庭を望む縁側に並んで腰掛けながら、彼は栽培している品種の特長やら、無農薬の栽培法やら、七瀬の質問にたどたどしく答えてくれたのだった。

 畑の一画に張られたビニールハウスにはサクランボの実が色づきはじめていて、農機具がしまわれた大きな納屋の周りを、まだ生まれて間もない仔犬が跳ね回っていた。陽光の下、容器の中の土の黒さとは対照的な白いプランターが眩しかった。

「よかったこと、悪かったこと、一年間育ててみて、初めていろんなことがわかるんです。からだ、動かせば、動かした分、次の年の肥やしになる。野菜も果物もみんな正直なものですよ」
 男はそういいながら、仔犬を膝の上に抱き上げてその背中を撫でた。鼻先に止まったテントウ虫に驚いて、仔犬は丸い目を細めて首を振った。日盛りの庭には温められた肥料の臭いが漂っていた。男は七瀬が帰る時、車のトランクを開けさせ、土が付いた野菜がいっぱい詰まった段ボール箱を入れてくれた。

 納屋の左手には露地栽培の白菜畑が広がっていて、霜降りの大きな蕾みのような葉の固まりが緑の色を深めながら彼方へと伸びていた。七瀬はハンドルに手を置いたまま、そんな午後の田園風景をぼんやりと眺めていた。
 
 何ら収穫のない会議が終わり、七瀬がJAを出る頃、美紀は年代物の革張りソファに座って、不動産会社のオリエンを受けていた。課長の三谷が一切メモを取らない主義なので、同行した部下がメモ役に回る。「四社のプレゼン」、美紀は青い水性ペンの文字でそう書き込んで、その下に競合する広告代理店名を記していった。手を動かすと、半透明の筒の中のインクが揺れるのを彼女は気に入っていた。

 地元の私鉄系不動産会社が目を付けたのは、駅前から伸びる名店街の終わりにポツンと残る映画街だった。今では古色の趣を極めるその一画にメスを入れ、低層階は映画館を束ねたフロアに、中・上層階は住居群とする地上二十階建てマンションを建設する。映画館主や地権者との調整も済んでいて、後は着工を待つばかりだった。

「シネマ・コンプレックス・マンション」と題された分厚い計画書を前に、街の活性化にもつながると口を切った販売部長からバトンを受け取るように、一級建築士の工事担当課長、営業部の若手社員と、その場に居合わせた面々は、それぞれに全く異なった要望を言い出し、美紀たちを当惑させた。だが、「まだ、意見がまとまっていないようですが…」と切り出そうものなら、「それをまとめ上げるのが、おたくたちの仕事でしょうが!」と突き返されるのが、代理店と付き合いなれた客たちの定石だったので、二人はうかつに彼らの話しの腰を折れない。

 計画書にある建物の設備や仕様を見ても、これといった特長は見当たらない。映画館が同居していることがマンション入居者にとってどんなメリットになるのか? 美紀は考える。ホールいっぱいに響く音への対策は? 入場者を装った不審者が居住階に侵入してくることは? 彼女の考えは否定的な方へと傾いていく。

 このオリエンの段階で、ビジュアルなり、言葉なり、何か頭に閃くものがないと後の制作で苦労する、それは美紀の経験則だった。

 一方、三谷は全く別のことを考えていた。彼の脳裏に浮かんだのは、制作費や媒体費をざっと積み上げた総売上とプレゼンに勝つための最適なスタッフの選定だった。ライターは? 一瞬、七瀬が頭をかすめたが、最近、新鮮みとパワーをなくしているのでは?と疑問符を付ける。でも、美紀は仕事にきまじめな七瀬を選びたがるだろうが。

 ドアがノックされ、女性社員が次番である広告代理店の来社を告げた。一時間と決められていたオリエン時間はとうに過ぎていた。この話を持ってきてくれた三谷と馴染みの古参社員は、結局、顔を見せずじまいだった。
「プレゼンに参加させていただいてありがとうございます。せいいっぱいがんばって提案させていただきますので・・・・・・」

 言い足りなさ、聞き足りなさを繕うように、つとめて明るく三谷はしめ括った。そんな丁寧な物言いの裏にある不安を感じとったのか、美紀にも、いつもの快活さが無かった。


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