「遠いデザイン」第7話
マンションのプレゼン、突発的なディラーのチラシの修正と、一種、変則的な忙しさのうちに週が明けて、七瀬は亮子に預けておいた色校正を引き取りにJAへ車を走らせていた。
週末に気分転換をかねて洗車した車は久々にシルバーメタリックの光沢を取り戻し、一年以上拘束されてきたブランド化プロジェクトから解放される日が近いことを祝福するかのように輝いている。
先行していた商品の価格表や注文書、宅配用のパッケージ類はすでに納品済みで、今抱えている印刷物もすでに初校が出た以上、これから大きな変更が入るとはまず考えられない。
ようやく見えてきたゴールを一気に駆け抜けぬけてしまいたい、と思う反面、亮子の影がちらつきだしてくる。彼女と会う機会はもうそう多くはないのだ。
JA手前の河川にかかる鉄橋が見えてきた。土手沿いの桜並木は数日前から白くほころびはじめ、一週間もすれば路上にしめやかな花片が散り敷かれることだろう。山手に目を向けると、段状に茶畑がうねり、燃え立つような緑の厚みが、所々に立つ送風塔の白さを際だたせている。冬の最後の発光のような陽光はいたる所に散乱し、橋上の歩道を駆けていく子供たちのビニールバックへ鋭い反射光を作った。
やがて対岸に小さく姿を現したJAの社屋は、そんな鮮やかすぎる陽光の下に弱々しく霞んで見えた。七瀬はその建物の中で今立ち働いているであろう亮子が、何か、けなげにも、はかなげな存在にも思えてきて、からだの中から沸き上がってくる微かな痛みのようなものがハンドルを握る手に伝わった。
駐車場に車を入れ、本館の正面玄関へと向かったが、途中で顔見知りの職員が歩いてくるのに気づいた。農業高校出の若い男で、七瀬とは以前、ブランド産品の認定基準のことで何度か意見を交わしたことがあった。
有機肥料による土壌の改良、日照時間と糖度の関係、品種の交配など、地道で根気のいる試験栽培のために、パイロットファームで寝起きし、日々生長する作物の実体とともに生きてきた彼は、七瀬がその時口にしたセグメンテーション、ターゲティング、ポジショニングといったマーケティング用語を、まるでスライスチーズを乗せた焼き餅を初めて頬張ったような顔をして聞いていた。それ以来、自分とは目の色や肌の色が違う知り合いができたとでもいうように、七瀬を見かけるたびに、うれしそうな顔つきで話しかけてくるようになっていた。
「こんにちは、これからお出かけですか?」
自分に気づいているはずなのに、そのまま行き過ぎようとする職員に、七瀬は少し戸惑いながら声をかけた。しかし、彼は七瀬を一瞥したきりで、足を止めるどころか挨拶さえ返さなかった。くたびれた濃紺のスーツの背中を見送りながら、七瀬は困惑した。
でも、亮子を前にすると、彼の頭からすぐにこの一件は消え去っていった。戻された初校にはチラシにだけいくつかの文字訂正が見られたが、彼の感覚からすれば、そんな程度では直しの部類に入らなかった。何よりもうれしいのは、直しの少なさを亮子が自分のことのように喜んでくれていた姿だった。
「あとは、七瀬さんにお任せします」
その言葉を素直に受け取って、後は七瀬側のチェックだけで印刷にかけることもできたが、彼女の手際良い段取りのおかげでスケジュールにはまだ余裕があった。
「いえ、念のために、このチラシだけもう一度色校をお出しますよ。これが最後の仕事となりますし」
最後、という言葉をどうとったのか、亮子の顔から一瞬、微笑みが消えた。伏し目がちになった亮子の指先に七目が行った。透明なマニキュアに光る指先がボールペンの軸をかすかに揺らしている。それは意識しているとも、していないともつかない柔さだった。
亮子が何か言おうとしている、そう感じた時、受付嬢が足早に近づいてきて亮子に来客があることを告げた。
店内に目を向けた亮子はすぐにその相手を認めたらしく短く嘆息した。数名の男性職員がおじぎを繰り返しながら、紳士風の年輩男をソファー席へと案内している。
「それでは、よろしくお願いします」
慌てて席を立った亮子の様子から、七瀬にもその男がJAにとって大切な客だという察しはついたが、営業でない、ブランド推進室の亮子がなぜ男の対応に出るのか疑問だった。
七瀬が打ち合わせブースを出る時、階段口近くに固まって自分を見ている四、五人の男たちに気づいた。その視線は見ているというより、射すくめているというほど鋭かった。見覚えのある顔もあったが、誰とも言葉を交わしたことはなかった。
七瀬が見返すと、何人かは視線を外したが、中にはますます挑発的に睨み返してくる者もいた。
何も怒りを買うようなことをした覚えはないが?
駐車場に向かっている間も、背中に視線を感じてしまい、七瀬は何度か後ろを振り返った。車に戻ると、駐車場の端に停めておいたためにぶつけられてしまったのか、片方のサイドミラーが根本から折れて地面に転がっていた。
※
美紀からの電話は、マンションのプレゼンに負けたことを知らせるものだった。言いにくそうにプレゼン費のことを切り出す声が、今の七瀬には遠く聞こえた。
先日のJAでの不可解な出来事が、いまだに彼の気持ちを沈ませていた。懇意だったはずの職員がみせた拒絶、敵意に満ちた男性職員たちの視線、片方もげて転がっていたサイドミラー、いったいどうしてだ?
美紀の声はいつしか消えていた。七瀬は窮屈なジーパンのズボンのポケットに無理やりケイタイを押し込んで、またとぼとぼと歩き出した。
彼は結婚情報誌のオフィスビルに向かっていた。スタートの春のご多分にもれず、その紙面も一新されることになり、外注~情報誌側はパートナーと呼んでいたが~向けに新しい制作マニュアルの説明会が組まれたのだ。
冬の撮影を最後に、編集部からは何の音沙汰もなかったが、あの県東部の温泉ホテルの広告が載った三月号は七瀬も気になっていた。読者の反応がよく、婚礼客増加に結びついたのなら、次回出稿の際にホテル側が七瀬を指名してくるかもしれない。しかし元来、持ち合わせていない営業意欲を奮い起こそうとしても、すぐに萎えてしまった。
そんな七瀬の気持ちとは無関係に、街は春特有の高揚感に満ちていた。暖房が止められた電車からはハカマ姿の女子学生たちが吐き出され、コンコースのあちこちに甲高い笑い声を響かせていた。真新しいスーツに身を包んだ一団が、社会人の仮面をぎこちなく付けて行き過ぎる。駅前では選挙を前にした立候補者の街頭演説が、気まぐれに振られた手に向かって感謝の連呼へと変わる。芽吹きはじめた街路樹が振りまく性の目覚めのような匂いは、生暖かい春の風に乗って薄着の女たちを街路に弾ませていく。
コンクリートと金属と合成樹脂でできたこの街にも、春の粒子は確実に忍び込んでくる。ショーケースの低い足元へ、事務机の暗い引き出しの奥へ、空調設備の擦り切れたダスト管の中へ、とんでもなく小さな空間にさえくまなく侵入して、一つの雰囲気をつくりあげる。それは気まぐれな人間たちの仕事と違って時間の継ぎ目が見えないほどに巧妙だった。
七瀬は地下道から駅の反対側へ出ようと思い、表通りに開いた階段口をさがす。情報誌のオフィスビルがある駅南地区は相続の際にも土地を手放さない地主が多いためか、最近めっきり増えた首都圏資本のビルに日照権を侵されながらも、まだ古い家屋が点在していた。
階段を下り地下道を歩いていくと、完成したばかりの地下パーキングの精算機の前で品の良いグレーのスーツを着た若い母親たちが立ち話をしていた。彼女たちはその横で回転人形のよう飛び跳ねている子供たちには目もくれない。入学式用に誂えた小さなブレザー。その首元に結んだ蝶ネクタイをつなぎあう手の先に見合いながら、子供たちは回り続けている。半開きの口からは言葉にならない声を発しながら。
レストラン街を抜ける時には、雑多な食べ物の匂いが彼の後を追ってきた。物産展のワゴンが通路にまで迫り出したデパートの食品売場の前では、試食品を手にした店員が通行人を呼び止めている。駅を起点に枝分かれしていた地下道が一つに集まる本道へ出ると、ティッシュ配りの姿が目につくようになった。
あいつらは、オレが亮子に気があることに気づいている・・・・・・。
七瀬は、歩いているうちに、そんな思いが頭から離れられなくなっていた。
中年のオヤジが得意先のオンナに手を出すな、ということか。そして、間違いなくあいつらも亮子にホレている・・・・・・
・・・・・・まあ、そんな気持ちもわからなくもないが・・・・・・でも、あいつらは、いったい彼女をどんな風に見ているんだ。オレみたいに、その魅力を正確にとらえているのか?
亮子の顔がこの雑多で薄汚い地下道へと降りてきた。それは以前、JAの予算会議の席上で七瀬が目に焼き付けた静謐な横顔だった。
駅に電車が到着したらしく、前方の人の流れが急に膨らんで、様ざまな靴音を響かせながら迫ってくる。
似ている芸能人なんていない……。そう、あれは今の顔じゃない。亮子はオレが若い頃に出会うべき顔だったんだ。いや、もしかしたら、それよりもずっと以前の顔かも知れない。・・・・・・たとえば、あの雪国の町、山あいの鄙びた温泉旅館、あの芸者の名前は何ていったろう・・・・・・そんな小説、昔、読んだことがあるな・・・・・・オレよりずっと年上のはずなのに、亮子がオレよりも若いのはどうしてなんだ? 誰が、何を、取り違えたというのか?
七瀬はとりとめもなく点滅する亮子のイメージに足元をふらつかせつつ、人波の中央を抜けていった。肩の左右に分かれて飛ぶ若い女の顔、顔、顔・・・・・・。七瀬はその中に亮子に似ている顔を探す。
マスカラとアイライナーで隈取られた皿のような目、その上にペンシルで引かれた小動物を思わせる眉、若い男の体臭と甘いスイーツの匂いにしか反応しない玩具のような鼻梁、春色のルージュがいっそう強調する締まりのない口元。
どれも、これも、安っぽい顔ばかりじゃないか。まるで流行雑誌から抜け出してきたバーゲン品みたいだ。亮子のように、この無機質な地下道に一点の叙情を落としてくれる顔、そんな本物の顔などどこにもありはしない・・・・・・
七瀬は、今、またつくりあげた亮子の清新なイメージに一人満足して、乗せ続けて歩いていた足を中央の点字ブロックから外した。
まばらになった人影がこの地下道にギターを抱えた若いストリートミュージシャンがいることを教えてくれた。前を歩いている女子高生たちが短いスカートから伸びる足を止めて、さっそく男の値踏みをはじめる。階段を上がってコンコースに出た時、地下道の方から歌声が響いてきた。懐かしいナンバーだったが、それは七瀬が若い頃に親しんだ音楽とは何かが違っていた。
※
初校の戻りから三日後、七瀬はJAの打ち合わせブースで約束通り、チラシの再校を亮子の前に広げていた。その場で修正個所を丹念に目で追う彼女を前に、七瀬は落ち着かなかった。あの敵意に満ちた視線が、またどこかから飛んできそうな気がしたからだ。
たくさんのそばだてられた耳があって、二人の会話を証言台に乗せている。そんな妄想さえ頭をもたげてくる。午前の早い時間のためか、客が疎らな店内はとても静かだった。
「大丈夫ですよ、川奈さん、この場ですぐに返事をいただかなくても。校正紙は預けておきますから、ゆっくりと最後のチェックをしておいてください」
彼がそう言うと、紙面に向けられていた真剣な目がゆるんで、亮子が微笑みながら頷き返した。
ここまできて必要以上に納品を急ぎたくない。それは七瀬の本音でもあった。
残るはこのチラシだけだったが、早く校了がもらえたところで、輪転機が回るのはどのみち翌週からだ。刷り上がってから、たった一文字でも間違いが見つかれば、今までの苦労が水泡に帰してしまう。いま彼は、長く亮子と一緒にやってきたこのプロジェクトをせめて気持ちよく終わらせることに気持ちが傾いていた。
週明けの月曜日に返事をもらう約束をして、七瀬は席を立った。これが最後の打ち合わせになるかもしれないのに、結局、彼女と親しく話ができる関係にはなれなかった。
駐車場へ向かう途中で七瀬はJAの建物を振り返って見た。肩を寄せ合うように並んでいる旧館と新館。二つのコンクリートの白い外壁が周囲の木々の影を淡く揺らしながら、まるで親子のように色艶の違いを際立たせている。
もう、自分はもうこの場所に立つことはないだろう。そう思う七瀬の頭上から重なり合う枝葉を透かして小さな光が斑に揺れながら落ちてくる。七瀬は乾いた地面を力なく蹴った。白い土埃が立ち彼の革靴をうっすらと汚した。