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「遠いデザイン」第1話
中年のコピーライターが、クライアント先の若い女性社員に淡い恋心を抱く。彼女がもつ正統的な美しさに惹かれるほど、自分がいる広告業界との違和感が大きくなり、告白したい衝動にかられはじめる。そこに人工的な美しさをもつ“モデル”がからみながら、不思議な三角関係が進んでいく。
タイトルの「遠いデザイン」とは遺伝子の設計図のこと。2001年が舞台の古いお話です。
二○○一年 冬
笛のような音を立ててガラス窓が震えていた。強い潮風が部屋に湿気をはこんでくる。垂れ込めた灰色の雲が、窓外の海景からから残照の輝きを奪い、岸壁の上に群れる鳥たちは黒い影となっている。空中から海面へ大きな弧を描く鳥たちは、下降する線上に風を見つけて広げた翼を固定する。それは自らが鳥であること誇っているようにも見える。七瀬はうっすらと湿ったガラスを指先で擦った。
「おまえさん、ねえ・・・・・・」
背後を小田嶋の声が横切った。それは明後日の方向に飛んでいったみたいに調子外れだった。このカメラマンは真面目な話をする時には決まって茶化した物言いになる。振り向くと、カメラの機材が入ったバックの中をまさぐっている。
アシスタントの手を借りつつも、撮影のたびに重い機材を持ち運んでいる彼の体には、固い張りのようなものがブルゾンの上からでも感じられた。同じ中年とはいえシャープペン、ワープロ、パソコンと、軽便な道具を使い替えてきた七瀬のようなコピーライターとは違って、カメラの仕事は肉体労働なのだろう。七瀬はペンだこが消えかかっている右手の中指に目を落とす。
「こいつよ、こいつ」
四つ折にされた紙が飛んできた。広げる先から複写の粗い女の顔が現れて、小田嶋の茶化した物言いの理由がわかった。明日、このホテルの婚礼施設の撮影に使うモデルの写真だった。1992年生まれ、身長167cm、体重51kg・・・・・・、そんなプロフィールが目にとまる。
「シマさん、そんなに心配なんだ?」
七瀬はガラス窓を離れ、和室の部屋の畳に腰を下ろした。使い込んだ大きな座卓が空間を占拠していたが、海に面した窓際には小振りのガラステーブルと二脚の籐椅子が置かれた板間もあって、ビル街のホテルのような息苦しさは感じない。
「ちぃっとばかし、可愛いいからって、笑えるの? ポーズとれるの? ホテルの担当者に伝えてあるの? 初仕事だってこと」
モデルがスカウトされたばかりの新人であることは七瀬も知っていた。明日の撮影には終日、モデルクラブのマネージャーが付き添うことも。フレッシュさは新人の特権だと、情報誌の紙面ミーティングに同席していたマネージャーの熱っぽい声が七瀬の耳にリフレインされる。
同じモデルが競合先の企業の広告に登場して、クレームの種となっている地方のモデルクラブとしては、少ない応募者を待つだけでなく、街中にもスカウトの目を走らせて手持ちのコマを増やしておきたいところだろう。婚礼情報誌の方もどこかのホテルや式場が一度使ったモデルはNGだ。経験不足を承知の上で、手垢のついていない顔を、という条件を付けてくる。
「笑えない、きまらない、ハジけない。ヘレンケラーちゃんじゃあ、お困りだっていうの。カット数だって、半端じゃないし」
いつものおまじないが始まったと七瀬は思った。茶化しながら不安を遠のけるおまじない、他人の言葉をもらって責任を分かち合うおまじない。五十を過ぎても、小心という神はまだ彼に宿り続けている。
「笑わせ方の問題だよ、シマさん。そう、きっかけさ、それだけ。だって、女ってやつは、誰でも、笑うことに貪欲じゃないか」
車で一時間足らずの温泉ホテルに、自前で前泊をきめこんでいるのは彼らだけだった。結婚情報誌の営業担当、モデルとそのマネージャー、スタイリストといった他のスタッフたちは当日着となっていた。
中年同士のささやかな息抜きのつもりだったが、久しぶりに交わす会話がどこかぎこちなくて七瀬はとまどう。それでも、地階の温泉場から立ち昇ってくる硫黄の臭い、年代物のゲーム機の雑多な色彩と調子はずれな電子音、そんな場末にも似た雰囲気が、七瀬の気持ちに微量ながらも怠惰の粉を振りまいた。
ホテルと名が付いていても、しょせんは、地方の温泉旅館。庭にチャペルを新設し、バンケットルームをリニューアルしたからといって、大手ホテルチェーン進出以降、隣市に流れてしまっている婚礼客をどれほど取り戻せるものなのか?
途中、コンビニで調達してきた缶ビールを作動音が鳴り止まない冷蔵庫にしまいながら、七瀬は急に弱気になる。
「いやァ、自前の追跡調査とはいえ、データがものをいいましたよ、七瀬さん! じつに七割以上ですからね。ウチの情報誌を見てから、式場を決めてるカップルの数」
笑みが止まらない様子で結婚情報誌の営業担当の林田がそう話しかけてきた。それは二ヶ月前、新施設のオープンに合わせ、四月号の特集枠出稿を決めたこのホテルとの打ち合わせの日だった。
巻頭十ページで展開されるペイドパブリシティ。純広告にもかかわらず、読者に取材記事と見紛わせることで広告以上の効果を狙う、そんな裏技企画のために、七瀬はこの二ヵ月間、取材やロケハン、数案に渡るラフカンプの提出と、ホテル側の投資に見合う分は振り回されてきたのだ。
空腹がアルコールの回りを早めたのだろうか。すでに首の辺りまで赤くした小田嶋が座椅子にもたれかかり、うつろな目をテレビ画面に向けている。すでに三缶目が空となって足元に転がっているビールが冷蔵ケースに並んでいた漁村のコンビニ。季節はずれの浮き輪が天井からぶら下がっていたその埃っぽい店内には、顔の似通った兄弟らしき子供がいて、小田嶋のサングラスの奥の眼をじっと覗きこんでいた。車に戻ってから小田嶋は、きっと先生か、友達の親にでも似てたんだろうよ、とこぼしていたが、七瀬にはどこか恐れているようにも見えた。
座卓の上に置かれた小田嶋愛用のルーズリーフ。ページに挟まれた明日の撮影リストに、彼が几帳面に時間配分を書き加えてあることは七瀬には容易に察しがつく。
「ところで、七瀬ちゃん、順調かい? その……JAの方は?」
「えっ、JA? ああ、なんだ、シマさん、知ってたの? 西南がブランド化事業立ち上げたって話」
「そう、その、ブラちゃん・・・・・・さ。ちっとも、話・・・回ってこねえよ」
唐突にJAと聞いて七瀬は動揺する。まさか亮子のことまで知っているんじゃないだろうな? そんな猜疑心まで兆してきて取り繕うようにビールに手を伸ばす。苦い泡が口中に広がって、この仕事と入れ違いに、今度はブランド化プロジェクトでメディア通信社にこき使われる自分の姿が見えてくる。
若い頃に築いた仕事のコネクションも、少しずつではあったが、着実に風化していった。二十代から三十代、小田嶋に勢いのあった頃はメディア通信社からの発注も多かったことだろう。その時、同じ道を歩きながら、屈託のない笑顔を見せていた同世代の発注者たちは、ある者は横道にそれ、ある者は見知らぬ自動車に拾われ、ある者は美しい飾り棚の前に立ち止まったままになって、気づいてみると、その道を歩いているのは彼一人だったのかもしれない。それはまた、四十六歳のライターである七瀬にも当てはまることではあったが。
「そのうち、シマさんにも、声がかかると思うよ。三谷課長も言ってたけど、西南さんのあの勢いじゃあ、ネギやダイコンだけじゃなくて、その調理例も写真入りでで紹介しようと言いだすんじゃないかねって」
調理という言葉がいけなかったのか、小田嶋の顔が一瞬強ばったように見えた。つなぐ言葉が見つからないのか、口元が歪んでそれが奇妙な笑いに変わっていく。
料理写真は小田嶋にとって最後の牙城といえた。名手という評判こそまだ失っていないが、今はデジカメで撮影した写真データをコンピュータで要領よく色調補正したり、画像修正してくれる人間が重宝がられているのだ。
小田嶋が写すポジの豊かな質感がこのカビ臭い客室の色合いと重なって、急に鮮度のないもののように思えてきた。
シマさん、オレだって同類なんだよ、と口走りたくなる。今という時代についていくのにかつかつなんだから・・・・・・。
ホテルの年間広告予算の大半を使い切る情報誌への広告出稿。その紙面を飾るタイトルキャッチは何と書けばいいのだろう? そして月初めに書店の平台に山積みされる情報誌に手を伸ばす若い女の顔が無数に浮かんでくる。七瀬はそこに一人の女の顔を見つけそうになって、思わず頭を振る。
二月の早い日没は窓外の景色から色を奪い去って、窓ガラスを室内を映す鏡に変えていた。七瀬はその冷ややかなガラス面の中で小田嶋と目が合うのを恐れて腰を上げる。
「シマさん、先にひと風呂浴びにいこうよ。この時間なら、ほとんど貸切りだろうよ」
カビ臭い戸棚の奥から紺地に白い波模様がある浴衣を引っぱり出す。肌に痛いほど糊がきいた布地が放り投げた畳みの上に乾いた音を立てた。